冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……ん?」
「い、いえ。お疲れ様です」
直視できない、相変わらずの自分に呆れるしかない。いつかは、この人が近くにいるのが当然のように思える日が来るのだろうか。
「出先で少し話が長引いて遅れた。悪かった」
「そんなに待ってませんので、大丈夫です」
九条は午後は外に出ていた。そこから直接店に来たのだ。
「勝手にフレンチにしたが、大丈夫だったか?」
「はい。滅多に食べられないので嬉しいです」
「何か希望はある?」
「何でも食べられますので、課長と同じもので」
そう伝えらた、九条が全てオーダーをしてくれた。すぐに赤ワインが運ばれて来る。
「じゃあ、お疲れさま」
ワイングラスを合わせて一口飲むと、赤ワインの苦味が口の中に広がった。
「あれから、坂田部長から何か言われたか?」
「いえ。何も」
「それならいい」
前菜を食べ終えた頃、九条が聞いてきた。
「坂田部長は以前から久留米常務とは深い繋がりがあるからな。今回のことは面白くないだろう。でも、そんな繋がり邪魔でしかない。ここで排除できて結果的に良かった」
全部、九条の計算のうちだったのか。
「仕事をする上で一番大切なのはリスクヘッジ。どれだけ多くのパターンのリスクを考えておけるかだ。そうすればリスクを恐れず事業ができる」
「はい」
「リスクを避けていては大きな利益は上げられないからな」
「これから自分が提案する時に肝に銘じます」
有能な九条から直接もらえるアドバイスが、どれだけ自分にとって価値あるものか。それを噛み締める。
「……君は、海外赴任の経験は? フィリピンの語学研修だけだったか?」
メイン料理の一つ、肉料理にナイフを入れながら九条が麻子に聞いた。
「はい」
同期の中でもやり手の子は、今、海外駐在中だ。商社マンである以上誰もが一度は希望する。
「事業会社への出向はないんだな」
海外駐在を経験をする人は多い。でも、その中でも海外の事業会社に出向できる人は選ばれた人だけだ。その分、その経験値はものすごくアドバンテージになる。九条は二十代でそれを経験している。
「激務中の激務だが、そこで得られる経験は他とは比較にならないほどに大きい。この先のキャリアで必ず必要になる」
「憧れますけど、選ばれるのが大変です」
留学経験もない自分では、語学研修に行って英語力を磨くのに精一杯だった。
「希望は出してあるのか?」
「はい。もちろん、入社の時に希望は出しています」
フォークを手にしたまま、九条が何かを考え込んでいる。