冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 食事を終えて店を出た。酒には弱くないけれど、ワインは飲み慣れてないせいもあって二杯程度でほろ酔いになっている。

「今日はごちそうになってしまって、すみません」
「君の給料の倍はもらっている。気にするな」

少しは出すと言った麻子をそう言って突っぱねた。

 現在の時刻、21時半。まだ時間はある。できれば、もう少し一緒にいたい。そう思っているのは自分だけだろうか。

「駅まで行けばタクシーが捕まるだろ」

九条が腕時計を見ながらそう言った。

「あ、あの――」
「君の家はここから近いからタクシーで帰りなさい。その方が安心だ」

やっぱり――。

このまま帰るのか。

「……はい」

勝手に期待して勝手に意気消沈する。ジャケットの中の目一杯オシャレして来たブラウスは日の目を見ることなく終わりそうだ。

 駅まで徒歩五分程度。それでも、夜の住宅街だからか歩いている人は少ない。少しの生活音と遠くに聞こえる車の音。そして二人の足音だけが聞こえる。二人きりで過ごすにはこの5分しか残されていない。なのに、焦るばかりで何も言葉が出てこない。

 九条の隣で俯いて歩く。こうしている間にも残り時間はどんどん少なくなっていく。

「あ……っ」

アスファルトの窪みにつまづいて、不意に身体のバランスを崩した。ゆらりと揺れた身体を九条の腕が抱き留める。

「どうした、大丈夫か?」
「すみません! 躓いちゃって……」

咄嗟に九条の腕を強く掴んだ。そんな麻子を九条が覗き込んで。

「酔ったのか?」

間近にある九条の目に、恥ずかしいくらいに胸が鳴りまくる。

触れたい。
もっと近づきたい。

握りしめた手のひらにさらに力を込めた。

このまま抱きしめてくれたらいいのに――。

そんな願望がむくむくと湧き上がる。

 ほんの数秒にも永遠にも感じた沈黙の後、九条が優しく麻子の身体を離した。

「少し酔ったのか? 水でも飲むか」
「いえ、大丈夫です。少しふらついただけですから」

一人で傷ついて馬鹿みたいだ。

 そうして、無情にも人通りの多い駅前に来てしまった。迷いなくタクシー乗り場に進んでいく九条の背中に告げる。

「やっぱり、電車で帰ります。ここからすぐなので。今日はありがとうございました。じゃあ、失礼します!」
「お、おい――」

勢いよく頭を下げ、そのまま改札へと駆け出した。
九条の顔はうまく見られなかった。

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