冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
法務部からの帰り、足早に歩く九条と出会した。ただの部下であるために気を引き締め、「お疲れ様です」と小さく会釈をして通り過ぎようとした。
「ああ、中野さん」
そこで、九条に呼び止められる。
「今日の深夜の便でパリに行く。帰国は日曜になる。その間に、ブライトンとの契約にあたっての最終条件を向こうの担当者に投げておいてくれ。それから、融資条件をもう少し緩和できないか探って欲しい」
素早く手帳を出して、聞き漏らさないようにメモを取った。
「承知致しました」
「よろしく頼む」
要件だけを伝えると、九条はすぐにその場を立ち去った。麻子もそれ以上何も言わない。
どんな時も、九条は九条だ。きっと、この週末会えないなんてことに思いが至るのも自分だけだろう。この恋は、自分が寂しさとどれだけ闘えるかにかかっている気がする。
その日の夜、帰宅途中の電車の中で一通のメッセージを受信した。
どうして――。
スマホを持つ手のひらから嫌悪が広がっていく。別れてから2ヶ月。結愛と一緒に暮らしているはずだ。
【突然ごめん。どうしても麻子に話したいことがある。時間を作ってくれないか。お願いだ】
それは、祐介からだった。
あんな別れ方をしておいて、一体何を言っているのだ。最後に会った日、祐介に一方的に言われた言葉が蘇る。どうしても返信する気にはなれなかった。
【頼む。重要な話なんだ。どうしても会って話したい】
返信をしないでいると、またすぐに次のメッセージが送られて来る。仕方なくそれに返信をした。
【祐介に会うつもりはありません。もう連絡して来ないでください】
会いたくないし話をしたくもない。あの日の、結愛と祐介の二人の姿を同時に思い出してしまう。もう二度と思い浮かべたくない。祐介にも結愛にも関わりたくない。スマホを乱暴にバッグにしまった。
それなのに、金曜日の夜、祐介が目の前に現れた。
「麻子――」
22時を過ぎているというのに、祐介が会社の前に立っていた。麻子と同じように残業していた社員たちが、エントランスから続々と出て来る。
「麻子が、全然メッセージ見てくれないから。こうして待ってるしかなかったんだ」
祐介が歩道の真ん中で麻子の腕を掴んだ。
「こんなところでやめて」
振り払おうとしても裕介の手の力が強くてできない。オフィスビルから出た来た社員たちが、チラチラと視線を向けて来るのがわかる。
「だったら、俺の話聞いて? この場所じゃ、麻子も困るでしょ?」
すれ違う社員たちの障害物になっている。
こんなところで待っていたのは、それが狙いだったのか――。
唇を噛み締めながら祐介に従った。