冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「課長――?」
何を思ったのか九条が麻子に顔を近づけて来る。そして、長い指が麻子の顎に触れた。
麻子を九条の影で覆い尽くした時、九条の冷たい唇が重なった。それが何なのか実感する前にすぐに離れたけれど、九条の顔は至近距離のままだ。近すぎてその表情がよくわからない。
「どうして……」
「私は君の恋人だろ?」
少し掠れた声で囁かれ、それが麻子の鼓膜を揺らす。そして、今度は触れたと同時に深くこじ開けて来た。
「――んっ」
ドアに強く身体を押し付けながら、何度も何度も確かめるみたいに唇を重なり合わせて来る。麻子に教え込むように、決して激しくはない深くて優しいキスが繰り返された。
「か、課長……っ、ここ」
ここは玄関で。ドアの向こうには祐介がまだいるかもしれない。
「大丈夫。彼は関係ない。今はただ、キスしていることだけ考えて」
吐息のように言葉を吐くと、またすぐに麻子の唇を塞ぐ。
それはまるで、九条が来るまで感じていた不安や恐怖を全部取っ払うみたいなキスだった。
麻子の考えていたことなんて、九条に分かりようもないのに、そう思えた。
懸命に、その唇だけを全身で感じる。
祐介の声は一度きりで、もう耳に届かなかった。
ようやく唇が離れ、九条の身体が遠ざかった。こちらは、もう息も絶え絶えだ。
「あ、あの、今日は、どうしてここに……?」
夢中で応えていた時はまだいい。こうして終わった後急に心臓の音が聞こえてきて、いろんなことが処理仕切れない。どうしたらいいかわからなくて、そんなことを聞いていた。
「何度もメールもしたし電話もしたけど、全然繋がらなかった」
「あ……すみません。電源を切っていました」
キスした後の九条の顔なんて直視できるわけもないし、自分の顔も見せられない。視線の置き所が分からず目が泳ぐ。
「……さっきの男が原因か?」
「はい。数日前から、どうしてだかわからないんですけど、連絡が来るようになって」
「君を裏切った、元恋人だな?」
「は、はい。本当に、すみません」
手のひらをぎゅっと握りしめる。玄関の前で祐介が喚いていた言葉が思い出されて、それを九条も聞いていたのだと思うと息が詰まりそうになる。
九条の手が麻子の肩を掴む。そして、そのまま自身の胸に麻子を抱き寄せた。少し熱いスーツの生地が頬に触れる。
「君は、自分が悪くなくても謝る傾向にあるな」
「でも、課長は不快になりませんでしたか? もし課長が、彼が言っていたことを聞いたなら、それは全部彼の勝手な思い込みなので、その、」
大きな手のひらが麻子の背中をポンポンと優しく。叩く、広い九条の胸に抱きしめられていることに、身体中の強張りが消えていく。
「わかっている。気にしてない。それより君は大丈夫か?」
気遣うような声が降って来る。
「君のことが心配だ。彼がストーカーのようになったら困る」
そういう九条はやっぱり大人だ。
自分なら、もし九条の元恋人が現れたらこんな風に平静でいられないかもしれない。
「多分、それはないと思います。彼、公務員なので警察沙汰になるようなことは避けるはずですから」
“警察“という言葉は大きかったはずだ。祐介は基本的に生真面目で気が小さい。大それたことは出来ない。
「もし何かあったら、すぐに私に言いなさい」
「……はい。そう言ってもらえるだけで、心強いです」
九条の胸と腕に包まれて心が満たされていく……って、ちょっと待って。
いろんな意味で心が落ち着いたら、この状況をはっきりと認識した。