冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 それからの一週間は大変だった。

 職場で九条から辛辣な言葉を吐かれている最中(さいちゅう)も、仕事の指示を受けている時も、誰かと仕事しているのを遠目で見ている時も。不意に『泊まりで』というワードが脳内に投げ込まれて、一人で恥ずかしくなったりして。これでは、まるで、初めての彼女とのお泊まりを前にした男子高校生だ。

 九条とのことになると、恋愛年齢が一気に引き下げられる。

 "泊まり"と言っても、また以前のように、ただ一緒に寝るだけの可能性も大いにある。

 でも、万が一ということもある。

 この前は、まったく色気のない姿を見せてしまった。さすがに挽回したい。

 万が一の時のために、準備しておくのに悪いことなんて何もない。もし、何もなくても、それはそれでいいじゃないか。

 一体誰と会話しているのか、頭の中で常に誰かに弁解していた。

 そして、深夜に一人『大人 下着』と検索して。早く帰れそうな日を見つけて、下着売り場に駆け込んだ。

 若い店員に、

『これくらい攻めても、全然問題ないですよ〜。だって、お客様、すっごくお似合いですから。カレシさんも喜んじゃいますね』

とそそのかされて、結局、"大人の女と言えば"みたいな、黒いレースの上下を購入してしまった。

 こんなのものまで準備してしまって、もはや、ただのプレッシャーになっている。

 その一方で、土曜の夜を指折り数えて浮かれていた。
 だから。自分の身に起きる最悪な出来事を想定出来ずにいたのだ。少し考えれば、容易に想定できたのに。


 土曜日の夕方。
 九条に会うために、鏡の前でめかし込んでいた時、呼び鈴が鳴った。

まさか、祐介――?

怯えて立ち尽くしていると、ドアの向こうから悪魔のような声がした。

「麻子ちゃん。開けてー。いるの分かってるから」

舌足らずの結愛の声。

「入れてくんないと、私、野宿になっちゃうー。いとこ見捨てるとか、そんな冷たいことしないよねー?」

その声は次第に大きくなる。

ドアを開けたら、きっとまた、強引にここに居座るのを拒否できなくなる――。

これまでの経験で身体が覚えている。

「麻子ちゃん! 外、暑くて頭が痛いの。熱中症で倒れちゃう!」

ドアの前で動けない麻子に、結愛が畳み掛けた。

「……しょうがない。もう、自分で開けるね。結愛、こんなとこで倒れたくないから」

え――?

鍵は返してもらった。なのに、どうして。ドアノブから、鍵が回される音がする。

「麻子ちゃん。やっぱりいるー。開けてよー」
「鍵、どうして……」
「ああ、これ? 出てく時にね、念のため合鍵作っておいたの。もしもの時のため。ほら、今みたいに、麻子ちゃん意地悪して入れてくれかったら困るもん。私、お金ないし」

この子、何言ってるの……?

「誰かさんのせいで、祐介くんち追い出されちゃったし、責任とってね。またお世話になります!」
「ふざけないで!」

満面の笑みの結愛に声を荒げた。

「結愛ちゃん、自分がどれだけめちゃくちゃなこと言ってるか分かる?」

自分の声も、いつのまにか握りしめていた手も震える。

「あれー。今日の麻子ちゃん、めちゃめちゃオシャレだー。もしかして、これからデート?」

麻子の姿を気に留めることもなく、ヘラヘラと部屋に上がり込んで来た。

「結愛、留守番してるから。行って来ていいよ?」

結愛を置いて家を開けるなんて、できるはずもない。唇を噛み締めながらも、かろうじて自分が真っ先にするべきことを思い出す。

課長に連絡しておかないと、心配をかけてしまう――。 

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