冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 既に部屋で寛ぎ出している結愛に背を向けて、九条にメールを送る。震える指のせいで短い文を送るのが精一杯だった。

【急用でいけなくなりました。すみません。あとで事情をせつめいしまし】

素早く送信して、結愛の前に立つ。

「もう、ここで一緒には暮らせない。出て行って」
「だから。結愛の話きいてなかった? 行くとこないの」

話にならない。どうすればいいのか――。

その時、麻子のスマホの着信音が鳴り響いた。それは九条からの電話だった。

メールを送ったのに。

こんなことで心配を掛けたくないし、これ以上、身内の恥を知られたくない。なのに、その着信は鳴り止まず、ようやく鳴りやんでもまた掛かって来る。

「麻子ちゃん、電話鳴ってるよ」

仕方なく、スマホを持ってトイレに行く。

「もしもし――」
(どうした、何があった)

九条の声が飛び込んで来た。

「当日になって、本当にすみません。詳しくは今度また改めて説明するので、今日のところは――」
(あの男か?)
「い、いえ、違います」
(だったら、何だ。ちゃんと言え)

こんな状況、説明したからってどうなる?
課長に頼れることでもない。ただ、頭を悩ませるだけだ――。

(これは命令だ)

九条の厳しい声に、手のひらのスマホを握り締めて硬く目をつぶった。

「……結愛が、私の従姉妹が突然来て、勝手に合鍵まで作ってて、また、転がり込んで……」

上手く言葉に出来ない。言葉にしようとすればするほど、怒りとやるせなさで胸が苦しくなる。

(――今からすぐに行く。私が着くまで、一切会話をするな)
「課長にそんなことさせられません――」
(分かったな)

もう、電話は切れていた。

 トイレから出ると、結愛が手に着替えを持ってこちらに向かって来た。

「お風呂入るね。外暑くて、汗で気持ち悪いんだー」

この子は、私から何かを奪わなければ気が済まないんだ――。

「……あ、そうだ。先に行っておくけど。麻子ちゃんは私のこと追い出せないからね。そんなことしたら、パパとママが許さないから」

浴室のドアが閉まる。

 麻子は、その場で座り込んで手のひらで顔を覆った。
 伯父と伯母に先手を打っておいたのか。結愛は、麻子が伯父夫婦には絶対に頭が上がらないということを熟知している。
 また、結愛に日常を壊される。どうしたって、逃げられないのか。育ててもらった以上、中野家の人間から逃げることはできないのだ。そのことを思い知る。

 九条はここに来ると言った。ここに来てどうするつもりなのか。

 狭い和室は、結愛の広げられたスーツケースでいっぱいで。その周りには、結愛の私物が乱雑に広げられていて足の踏み場もない。

やっぱり、こんな部屋に課長をあげられない――。

巻き込めない。

 九条のようなエリートからすれば、こんな部屋もこの状況も想像できないだろう。できれば、会社で仕事を頑張っている姿だけを知っていてほしい。これ以上、恥ずかしい姿を見せたくない。

 風呂場からは何か、鼻歌のようなものが聞こえて来る。

 息が詰まって胸が苦しくなる。さっきスタイリングした髪を思わず掻きむしった。怒りの感情で一杯のはずなのに、涙が込み上げてくる。

【すみません、やっぱり私が解決すべきことなので、自分の力で解決します】

九条にメッセージを送信した。

 この世で、自分がたった一人になったような錯覚に陥る。
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