Melts in your mouth




部屋番号を打った後に呼出ボタンを押した。ドキドキと胸が音を立てているのは、初めて訪れる場所への緊張からだと言い聞かせる。「はーい」少し擦れた元気のない平野の声が耳に触れてから僅か三秒後。



「え…ぇえええええ永琉先輩!?!?!?えええええええ!?!?俺もしかして死んじゃった?遂に幻覚見え始めてる感じ?」



すぐにいつもの鬱陶しい平野が戻って来た。


何だよ、結構元気じゃん。声を聞いてちょっと安心した。これで呼び出しにも応えられなかったらいよいよ救急車を手配しなければと思っていたから、119に掛ける準備をしていたが必要なかったらしい。携帯をポケットに仕舞った後「騒いでる暇あったらオートロック解除して」と未だにギャーギャー言ってる男に対して放った。



「あ、え?本物の永琉先輩だ…この冷たさは本物しか出せない奴だ。」

「あんた喧嘩売ってんの。」

「違いますよ~。永琉先輩と結婚できてないのに死んだのかと思って気が動転してただけです。」

「結婚する未来が決まってるかの様に言うのやめろ…「オートロック解除しました!」」



せめて人の話は最後まで聞け。何度も言うが一応私先輩だぞ。いつもと変わらない調子の平野に全身の力が抜けていく中、まだ喋り続けている平野を無視してマンションのエントランスに足を踏み入れた。


正直、私の住んでいるマンションと平野のマンションが異常に近いという事実にちょっとだけ驚いている。最寄りの駅も一駅しか変わらない。


停止したエレベーターから降りて平野の部屋番号が表記されている扉の前で足を止めた私が、部屋のインターホンを押すよりも先にガチャリと目前の玄関扉がゆっくり開いた。


隙間から流れ出る様にしてこちらの鼻腔を掠めるのは、仕事中いつも隣から広がる甘い香りだった。たった数日だけはなずなのに、随分と久しくその香りと離れていた感じがする。



「何で帽子被ってんの。」

「だ、だって…ずっと寝てたので髪の毛ボサボサで…永琉先輩に見られるの恥ずかしいから。」

「……。」



甘い香りと共に姿を現した平野の顔は、深く被っているバケットハットとマスクのせいでよく見えなかったけれど、体調が全くよろしくないと覚るには目元だけで充分だった。


顔色が頗る悪い上に、まだ熱があるのか露出している部分の肌が火照っている。「髪の毛のことなんて一々気にしてないでちゃんと寝てなさいよ」溜め息を吐きながら相手から帽子を奪い取ったら、平野が自らの顔を手で覆って「ちょっ…やだ…こんなヨレヨレな俺見せたくなかった…」そう小さく漏らした。


お前は何処ぞの乙女かよ。


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