出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 すでに他の家族は早くから外出していた。孝匡は『今日は私も母さんも懇親会で遅くなる。実乃莉は外で夕食を取りなさい。時間は気にしなくていいから』と実乃莉を残し家を出た。
 迎えの時間まではそれなりにある。逸る気持ちを抑えながら用意に取り掛かった。
 由香にしてもらったものには遠く及ばないが、それでも服装に合わせ考えながら自分にメイクを施す。髪はスマートフォンで検索した情報を参考にアレンジしてみる。そんなことはほとんどしたことのなかったが、少しでも可愛いと思ってもらいたかったから。

 約束の午前十時、家の前に黒塗りのハイヤーが到着した。白い手袋をした年配の運転手が恭しく実乃莉を促し、そこに乗り込んだ。

「それでは出発いたします。何かございましたら遠慮なくお声掛けください」

 運転手は前の席から振り向くと、被っていた帽子を持ち上げそう言った。

「よろしくお願いします」

 実乃莉の返事に柔和な笑顔を見せると男性はハンドルを握り、車はゆっくりと滑り出した。

(どこに……向かってるんだろう?)

 車窓に流れる景色を眺めながら考える。最初は、昨日訪れた場所に連れて行かれるのだと思っていた。けれど車は予想とは違う方向に進み始めた。
 
 今からどこに行くのか、誰に会うのか実乃莉は知らされていない。受け取った身上書は開封していないし、運転手から目的地も聞いていない。
 もしも、自分が想像する人と違っていたら……そんな不安もあった。
 けれど自分を、そして何より自分の愛する人を信じよう。それだけを思いながらここにいた。

 車は小一時間走り、海沿いの道から舗装のされていない細い並木道に入る。見覚えのあるその道の先には、前は閉まっていた古い鉄門が開かれた状態で待ち受けていた。そして突き当たりの、立派な洋館の前で車は止められた。

「お待ちしておりました。鷹柳様」

 前に訪れたときにはいなかった男性が、ホテルのドアマンのように実乃莉を出迎えた。
 前は龍に抱き抱えられ歩いた場所に、今度は自分の足で降り立つ。
 風があたりの木々を揺らし、葉がメロディを奏でている。頭上から照らす陽の光は柔らかで、スモーキーピンクのワンピースを着た実乃莉を優しく包んでいた。
 ドアマンが大きく重厚な扉を開けると実乃莉はそれを潜る。

「二階のゲストルームへどうぞ」

 一度しか来てはいないが、それでも場所はちゃんと覚えている。
 正面の広い階段を上がり、一番最初にある部屋。その前で深呼吸をして、実乃莉は扉をノックした。
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