出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 しばらく待ったが返事はない。聞こえなかったのか、誰もいないのか、悩むより先に実乃莉はドアノブに手をかけそっと開いた。
 一瞬風が吹き抜け、テラスのガラス戸がカタカタと音を立てて揺れている。実乃莉が扉を閉めると、それは口を噤んだように静かになった。かわりに遠くから聞こえてきたのは、さざなみの心地よい調べだった。
 部屋には誰の姿はない。以前と何ら変わりのない部屋の中。そこから外に出るテラスの窓は、実乃莉を誘うように開け放たれていた。
 実乃莉は少しずつ歩みを寄せる。その足音は分厚い絨毯にかき消されていく。ようやくテラスへの入り口に届くと、ウッドデッキに実乃莉の靴音が響いた。
 海風が実乃莉の髪とスカートの裾を揺らす。それを押さえながら正面に視線を向けると、テラスの一番向こうに、海を見下ろすように佇む背中があった。昨日とは違う色のスーツは、あの日と同じグレーだ。
 一歩足を踏み出すと、また足音が響く。遠くにある広い背中はピクリと揺れる。実乃莉がまた一歩踏み出すと、その音に合わせてゆっくりと背中は返った。

「龍さんっ‼︎」

 実乃莉は駆け寄るとその胸に飛び込んだ。龍は実乃莉を抱き止めると背中をギュッと抱きしめた。

「会いたかったです。ちゃんと、こうやって……」

 この温もりも、匂いも、腕の力強さも、忘れそうで怖かった。けれどこの瞬間、一瞬にして蘇った。
 胸に顔を埋め訴える実乃莉に回す腕により力を込めると、龍は絞り出すように言葉を発した。

「俺もだ。実乃莉、また戻って来てくれてありがとう。……愛してるんだ。この世の誰よりもお前を」

 その声は、きっとらしくないと思われそうなほど弱々しい。でもわかっている。龍だって自分と同じくらい、もしかするとそれ以上怖かったことを。それも含め、これが龍の本当の姿なのだ。
 実乃莉が顔を上げると、切なげに目を細めた龍の顔がそこにあった。

「私も……愛しています。この気持ちは間違いなんかじゃありません。何度やり直しても、きっと同じ答えに辿り着きます」

 揺るぎなく、ただ真っ直ぐに自分の思いを伝える。それは実乃莉が初めて、誰にも左右されず自分だけで導き出したものだった。

「……龍さん……」

 実乃莉は両手を差し出すと、龍の頰に伝う一筋の雫を拭いとる。

「こんな……情け無い男でも、いいか?」
「はい。そんな龍さんの全てが愛おしいんです」
「実乃莉。一生、俺のそばにいてくれるか?」
「もちろんです。これからずっと、一緒にいさせてください」

 実乃莉は最大限の笑顔でそう答えた。
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