ティータイムは放課後に。〜失恋カフェであの日の初恋をもう一度〜
第11話
それから一花は、放課後になると椎の店へ足を運ぶようになった。
「椎ちゃん、ただいまー」
「……お前、少しは店の雰囲気を考えろ。ここはただいまーって駆け込んでくるような店じゃない」
「はいはい。中庭にいるねー。あ、わたしいつものピーチティーとミゼラブルで」
「……今日は代金もらうからな」
椎の小言はスルーして、一花は中庭のテラスに向かう。
今日は天気がいいから、テラスでもうすぐ始まる中間テストの勉強をしようと思ったのだ。
椎の店の奥には、中庭テラスがある。晴れた日しか開放されないが、中庭は温室のようになっていて、とても空気がいい。人工的に作られた小さな池には数匹の金魚が泳いでいる。
一花は昔からこの中庭が大好きだった。なんだか、不思議な雰囲気がするのだ。
特に陽が落ちる直前なんかは、足元のライトがうっすらと輝いて、空には檸檬色の月と星々が煌めいて、まるで妖精でもいそうな気配がするのだ。
一花の心の奥でなにかがことり、と動いた気がした。
空を見上げる。陽が落ち始めた。
紫と青が混じり合った不思議な色の空に、うっすらと星が見える。
「……月がない」
中庭の形に切り取られた空には、月は見当たらない。今日はどうやら新月らしい。
今は何時だろうと思いながら、頭を下げる。
なんだか眠い。最近の一花は雪のことを考えないように勉強ばかりしていたから、疲れが出たのかもしれない。
少し休もう。そう思い、一花は目を閉じた。
夢を見た。
小学生の頃の夢だ。一花はやはりこの中庭にいた。
けれど、様子がおかしい。べそをかいている。
一花はどこか冷静な心でその夢を第三者の立場から傍観していた。
そうだ、と気付く。
初めての失恋をした、あの日の夢だった。
椎が彼女を店に連れてきたのだ。一花がいつものように椎に会いに行ったら、椎は知らない女の子と話していて、それがすごく嫌で、悲しかった。
『……椎ちゃん』
あのときの一花に気付いた椎が驚いた顔が忘れられない。
その瞬間、世界が真っ二つに割れてしまったように思えて、椎が知らない世界に行ってしまったようで、目の前が滲んだ。
懐かしい。
一花の初恋は、このときに終わったのだ。
じんわりと、胸の中に苦い感情が広がった。今の感情に少し似ている。
思えばあのときは、どうやって立ち直ったのだろう。あれからしばらくは椎の家に行かなくなって、椎とも口を聞かなくなったはずだ。
でも、一花と椎は今でも仲がいい。
なにかがきっかけで、ちゃんと仲直りをしたのだろうが……。
空を仰いだ。
「……月」
自分の声がどこか遠くに感じた。
そうだ。あの日も月がなかった。
けれど、あの日って?
椎と彼女を見た日か。それとも……。
パッと目が覚めた。
むくりと起き上がると、正面の影が揺れた。
「……起きたか」
向かいには、椎が座っていた。テーブルに頬杖をついて、一花に呆れたような視線を向けていた。
「椎ちゃん……?」
瞳を瞬かせる。
「……お前、こんなとこで寝るなよ。また風邪引いたらどうするんだ」
それなら起こしてくれても良かったのに、と思い、首を傾げる。
「……また?」
また、とはなんだ。
「…………いや」
椎がサッと目を逸らした。
そういえば、前にもこんなことがなかったか。
月がない夜。朦朧としていた夜。
ぴちゃん、と池の中の金魚が跳ねた。
ハッとする。
目が覚めたような気がした。
――あのとき。
この店に来なくなって、でもどうしても椎に会いたくて、一花は一度、こっそりとここに来たことがあった。この中庭の隅で小さくなって、池に写った窓の向こうの椎を眺めていた。声をかけたかったけれど、まだ不貞腐れていたのでそれも嫌だったのだ。
一花は立ち上がり、池の前にしゃがみ込んだ。池の中の金魚に目をやり、視点を変える。水面に、窓と窓の奥の厨房が目に入った。
「おい……一花? どうした?」
椎が訝しげに一花を呼ぶ。
あのとき一花は、夜になってもこの場所にいた。親は当然帰ってこない一花を心配して、椎の店へ連絡した。椎の両親も椎も、必死で探してくれた。
「ねぇ、椎ちゃん……」
そうして、ここで眠りこけていた一花を見つけたのが椎だった。
そのときばかりは、いつも優しかった椎にこっぴどく叱られ、大泣きしたのだ。でも、そのあと椎は一花を強く抱き締め、謝ってきた。
椎は、一花の気持ちに気付いていたのだろう。幼い心を傷付けたことを後悔していた。
ごめんな、と言った椎の顔を思い出す。
「……あのとき私……ここで椎ちゃんにすごく怒られて、それで……謝られた」
椎が目を瞠る。
「……思い出したのか?」
一花は椎に目を向けた。
「椎ちゃん……私、椎ちゃんと約束してたよね」
あの日、一花はたしかに約束をした。指切りもした。
『お互いに、もう恋人は作らない』
指切りをした。
「……どうして言ってくれなかったの? 私が熱出して朦朧としてたこと知ってたでしょ?」
椎は目を伏せた。
「……一花が幸せそうだったから。一花が笑っていられるなら、隣にいるのが俺じゃなくてもいいと思ってたんだ」
心臓を直で掴まれたように苦しくなる。
「それに、当時の約束はそのままの意味だったわけじゃない。あの頃一花は小学生で、俺にとってはただ可愛い妹だった。だから、これ以上妹を傷付けないよう、一花の前でそういう話はしないように、うちに誰かを連れてくるようなことは止めようって、そういう意味での約束だった」
一花の口から男の子の名前が出てきたときは、驚いたと言う。
でも、と椎は俯いて、自嘲気味に笑った。
「俺も同じだった」
「え……?」
「一花がクラスメイトの話を楽しそうにしているとき、正直結構堪えたよ」
「椎ちゃん……」
椎は眉間に皺を寄せて、怒っているような、苦しんでいるような、難しい顔をしている。椎のこんな顔を見るのは初めてだ。
「……叶うなら、一花がもう一度俺に恋してくれたらとは思ったけど」
すっと、空気が冷たくなったような気がした。
椎の顔に影が落ちる。かすかな光に浮かび上がった椎の顔は一転、今にも泣きそうに見えて、一花は胸が苦しくなった。
「一花が笑ってるんだからって言い聞かせて、仕事で頭をいっぱいにして無理やり誤魔化してた」
一花はショーケースを思い出す。ずらりと並んだ宝石のようなケーキ。椎が店主となってから、かなりメニューが増えていた。椎は仕事をして、自分の想いを誤魔化していたのだ。
「それなのに……お前、泣いてここにくるんだから」
まったく、と椎は額を押さえた。
「こっちがどれだけ……」
はぁ、と椎のついた深いため息が、一花の心にぐさりと刺さる。
「ごめん……」
一花は椎の袖をそっとつまんだ。
「……ごめん、椎ちゃん。私、もう忘れたりしないから」
椎が顔を上げる。落ちた前髪の隙間から覗く椎の潤んだ瞳と、視線が絡んだ。その瞳は、どこか怯えているようにも、戸惑っているようにも見えてひどく焦燥を掻き立てられた。
「……一花」
名前を呼ばれ、今度は一花の心が荒ぶった。
「……えっと」
ふっと、椎が笑う。
「な、なんで笑うの」
「……いや。やっぱり可愛いな、と思ってな」
椎はそっと一花に近付いた。一花はまっすぐに見つめられ、椎から目が逸らせなくなる。心臓が口から飛び出しそうなくらいに跳ねた。
「もう忘れないって、どう言う意味?」
「え……?」
「また、約束しなおしてくれるの?」
椎の手が一花の頬をそっと掠めた。
「……ねぇ、一花。もう、彼氏作らないでいてくれる?」
一花は頬を赤く染めたまま、動けなくなった。
椎がふっと微笑む。いつもより少し砕けた笑みだった。
心拍数が上がっていく。
そんな顔をされると困る。こちらは傷心なのに、と、一花は戸惑う。
「あの……し、椎ちゃん」
「冗談だよ」
淡々とした声で言うと、椎は立ち上がった。
「ど、どこ行くの?」
尋ねると、椎はくすりと笑った。
「どこにも行かないよ」
一花はぎゅっと拳を握る。
「……あの、椎ちゃん」
「いいよ。なにも言わなくて」
先回りをされ、一花は口を噤んだ。
椎は一花の頭に手を置いた。
「……この前の秋祭りのケーキ完成したんだけど、食べるか?」
「え! りんごの?」
「あぁ」
「食べる!」
パッと表情を明るくした一花に、椎はまた微笑んだ。