恋はひと匙の魔法から
 千晃が余計なことを言わない内に厨房へ引っ張って帰りたかったのだが、時既に遅し。
 透子が追いついた頃には、千晃がお客に向けるものとは思えないほどの険しい表情で、席に着く西岡を見下ろしていた。

「お待たせしました、ホットコーヒーです」

 声は果てしなく威圧的だが、テーブルへコーヒーカップを置く手つきは繊細だ。理性は失っていないらしい。
 トラブルに発展しない内に柵(カウンター)の内側に戻らせようと、千晃のふくらはぎを割と強めに爪先で蹴ってみたが、そこそこ名の知れたホテルの厨房で武者修行をしていた頑強な兄はビクともしない。

「えっと、透子のとこの社長さん、ですよね?透子の兄の千晃です。透子がいつもお世話になっています。こんな時間に何かご用でしょうか?うちはもうすぐ閉店なんですが」
「ちょっと、晃兄。失礼な言い方しないで」
「透子は黙ってろ。で、何故いらしたんですか?理由によってはこのままお引き取りいただきたい。お代は結構ですので」

 明らかに喧嘩口調で睥睨する千晃を制止するべく、透子はぐいぐいと太い腕を引いた。
 わざわざ迎えに来てくれたのだ。そんな彼に厄介なスイッチが入った兄の相手をさせるのは忍びない。
 それに、こんな面倒くさいシスコンの兄がいるのだと誤解されるのも嫌だ。
 
 だが、西岡はそんな透子の懸念に反して悠然と構え、千晃の辛辣な物言いを受け止めている。
 そして、すっくと立ち上がったかと思うと、ジッと千晃を見据えた。細身ではあるが自分よりも長身で、尚且つ堂々たる風格を漂わせる西岡を前に、千晃が一歩後退りたじろいだのが分かった。

「初めまして、西岡遼太と申します。こちらこそ、透子さんにはいつもお世話になっております」

 至極穏やかな口調でそう言いながら、西岡はジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出し、その中の一枚を千晃へと差し出した。

「あ、ご丁寧にどうも」

 西岡の丁重な対応に毒気を抜かれたらしい兄は、素直にその名刺を受け取った。「おお、本物だ」と小さく感嘆の声も上げている。我が兄ながら単純である。

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