恋はひと匙の魔法から
『やめてくれよ、そういうの』
『どうして?遼太の荷物ね、まだ取っておいてあるよ。服も、小物も全部』
『捨ててくれって言ったはずだ』
 
 鈴を転がしたような声が、透子もまだ呼んだことのない彼の下の名前を紡いだのを聞いて、気がついたら体が勝手に動いて扉をノックしていた。
 これ以上盗み聞きを続けていたら、自分の中の何かが脆く崩れていってしまいそうだった。
 少し間を置いた後、入室を促す西岡の声が聞こえ、透子はゆっくりとドアを開けた。

「……ただいま戻りました」

 部屋に入ると、西岡の向かいに座る英美里の姿がまず目に飛び込んできた。
 ぱっちりとした大きな目を縁取る長い睫毛。すうっと通った鼻筋に、ふっくらと艶やかに色付いた唇。ファンデーションを塗っているとは思えないほどきめ細やかな白い肌。そして、華奢でありながらも女性らしい柔らかさを備えた体つき。
 思わず見入ってしまうほど、彼女の美しさは精緻を極めていた。圧倒されその場に佇む透子に疑問を抱いたのか、英美里は小首を傾げて立ち上がった。

「ご挨拶が遅れました。本日、羽柴に代わりまして司会を務めます、工藤英美里です。どうぞよろしくお願いいたします」
「……西岡の秘書を務めております、フェリキタスの三浦と申します。こちらこそよろしくお願いいたします」

 嫣然と微笑んでいるように見えるのに、英美里からはなぜかヒシヒシと威圧感を感じた。彼女が放つ強者のオーラを前にたじろぎそうになるが、社会人としての矜持をかき集めて、透子はなんとか笑顔で挨拶を返す。

「長居をしてしまってすみません。彼とは大学時代からの友人なので、つい話し込んでしまって。ね?」
「……もうすぐ時間だろ。帰れよ」

 朗らかな笑みを向ける英美里に対し、西岡は秀麗な眉をひそめ、不機嫌を露わにした。顎をしゃくって入口の方を指し示し、英美里がこの場に留まることを拒絶している。
 そんな粗雑な態度が、逆に彼らの関係性の深さを物語っているようで、透子は口を挟めない。
 素気なくあしらわれた英美里はそのことに気を悪くした様子もなく、颯爽と透子の横を通り過ぎる。
 
「じゃあ、遼太。また後で」

 ひらりと手を上げた英美里は優雅に楽屋を後にした。
 この短時間で心を騒然と掻き乱された透子は、寄る辺ない気持ちに襲われてその場に立ち尽くし、悄然と英美里が去った後の扉を見つめた。
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