恋はひと匙の魔法から
 打ち合わせは滞りなく終了した。
 ディレクター陣が楽屋から出ていくと同時に、透子は西岡へ断りを入れてトイレへと逃げ込んだ。きっと今、自分はぎこちない表情を浮かべていることだろう。彼に気を揉ませてしまうのは避けたかった。
 案の定、鏡に映った自分は浮かない表情をしている。強張った顔の筋肉を解すために、口角を上下に動かした。十回ほど繰り返していると自然と表情もほぐれ、同時に荒れていた胸中も落ち着きを取り戻していく。
 大丈夫、と根拠もなく己を励ましながら楽屋へ戻り、ドアノブに手を掛けた。
 その時――

『まさか、これも仕組んだのか?』

 西岡の呆れ混じりの声が聞こえてきた。電話、だろうか?
 だが、次に聞こえてきた声に、透子は驚きで目を瞠った。

『仕組んだって失礼ね。流石に偶然。空いてるのがたまたま私だったってだけ』

 クスクスと笑うその美声を、透子はよく知っていた。

 (工藤、英美里……)

 息をのんだ透子はドアノブに手を掛けたまま、扉へ顔を近づけた。すると先程よりも中の物音がクリアに聞こえてくる。
 こんな盗み聞きのような真似はすべきじゃない。己の中の常識がそう警鐘を鳴らしているが、透子はそれに目を瞑り、扉の向こうで繰り広げられる会話に耳をそば立てた。
 
『でも、この間の飲み会は違うだろ。田畑のやつ、おまえに口止めされたって言ってたぞ』
『だって、私が行くって知ってたら来ないでしょ?だから内緒にしててって頼んだの。久しぶりに話したかったんだもん』
 
 この間の飲み会……確か、先週大学時代のゼミの同期と久しぶりに飲み会があると言っていた。そこに英美里も来ていたということなのだろうか。

(そんなこと、全然言ってくれなかった……)

 透子の胸に小さな不信感が根差す。
 それでも透子は、頭の中を蔓延るモヤモヤを必死に打ち消そうと自分に言い聞かせた。
 ――きっと何もなかったから、透子に話す必要がなかっただけ。決して後ろめたいだとか、そんな理由ではないはず。
 しかし、それは盲信のように思えてならない。透子は胸が抉られる思いで、目の前の白い扉を見つめ続ける。

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