新そよ風に乗って ⑥ 〜憧憬〜
でも、そんな言葉を聞いてしまうと余計に涙が止まらない。
「俺は、お前に泣かれるほど辛いことはないって言っただろう?」
高橋さんが、優しい目で私を見ながらまた涙を拭ってくれた。
『まだ、少し時間は掛かるかもしれないが、その時が来たらちゃんとお前に向き合いたい』
そう言ってくれた高橋さんのその言葉だけで、今は十分だった。
点滴が終わって明良さんももう帰ってもいいと言ってくれたので、ゆっくり起きあがると嘘みたいに先ほどとは違って体が軽くなったように感じられ、ベッドから降りて立ち上がってもフラフラすることもなくなっていた。
病院のロータリーで、駐車場から車を出しに行ってくれている高橋さんを待ちながら、交差点で擦れ違ったミサさんのことを思い出していた。
別れてから何年も経って高橋さんとミサさんは、どんな会話を交わしたんだろう?
高橋さんが、あれほどまで愛した忘れられない女性。
ふと、目の前に車が停まり、高橋さんが運転席から降りてきた。
『何で俺はミサに惹かれたのかさえ、分からなくなった』
高橋さんのあの言葉は、どういう意味なんだろう?
「明良も言ってたぞ。ちゃんと、食べてなかったらしいな」
うっ。
車に乗った途端、高橋さんに言われてしまった。
もう!
明良さんったら、あれほど言わないでって言ったのに。
「遅くなったし、キャトルにでも行って消化のいい栄養のあるものを作ってもらおう。いいな?」
「は、はい。すみません」
キャトル。久しぶりだな。
仕事で遅くなった時に、たまに高橋さんが連れていってくれるお店。大人っぽい雰囲気のお店で、明良さんや仁さんも常連でもう何年も通っているらしい。お店のマスターが、またナイスミドルでお料理も上手で素敵だったりする。お店に一緒に連れていってもらった中原さんも気に入っていると言っていた。
病院からキャトルに向かうと、お店の近くに車を停めて私を先に降ろしてくれてから、高橋さんは駐車場に車を置きに行った。
先にお店に入っててと言われて返事はしたものの、ドアを開けて入っていく勇気が少し必要だった。
勇気を出してドアを開けようとした時、お店からお客さんがちょうど出てきて、まるで自動ドアのように開いてしまい、お見送りをしていたマスターとバッチリ目が合ってしまった。
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