スイート×トキシック

「……っ」

 彼の双眸(そうぼう)が揺れたかと思うと、伸びてきた腕に包み込まれていた。

 爽やかなシトラスの香りがほのかに漂う。
 以前より薄く感じるのは、わたしからも同じにおいがしているからかな。

 十和くんを抱きとめるように、その背に手を添えた。



「このまま、好きでいていい?」

 そう尋ねられ、思わず小さく笑ってしまう。

「駄目って……言わせてくれるの?」

 聞き返すと、彼がふるふると首を横に振った。
 髪の先が頬に触れてくすぐったい。

「やだ。……もう止められないし、やめらんない」

 わずかに掠れた声は普段より低かった。
 肩に顎を載せ、体重を預けてくる。

 迷子の犬みたいでも、気まぐれな猫みたいでもあり、やっぱり掴みどころがなかった。

(もしかしたら────)

 最初の頃に見せていた、わたしの心を得られる自信は、不安の裏返しだったのかもしれない。

 “好き”が高じて誘拐や監禁なんていう特異な行動に出て、もう後には引けなくなって。

 自分が間違っていないことを証明するには、わたしを好きにさせるしかなくて。



 ふと、十和くんがわたしを離した。
 ()しむような眼差しを残したまま、やんわりと笑う。

(あ……)

 何だか、似ていた。
 先生の優しい笑顔と。

(────そんなわけない)

 目を覚まさなきゃ。
 ほだされて、騙されたら、甘い毒が回ってしまう。

 まかり間違っても好意なんて抱いちゃいけない。
 抱くはずもない。

(そうだよ……。ぜんぶ、作戦だ)

 彼に対して笑顔を見せることも、触れることも、抱き締め返すことも、すべては目的のための手段でしかない。

 信用を得て、生きてここから抜け出す。
 もう一度、先生に会う。

 それだけがわたしの原動力だ。

 十和くんに対して覚えた肯定的な感情は、ぜんぶぜんぶまやかし。

(わたしが騙されちゃ駄目だ)



*



 ぱたん、と閉じた漫画をテーブルの上に置いた。

(暇だなぁ……)

 部屋に閉じ込められ、何もかもを取り上げられては、することがなくて退屈だ。
 せめてもの娯楽(ごらく)として彼が渡してくれた漫画や小説も、すぐに読み終わってしまった。

(でも、はじめはこんなの考えられなかった)

 ────最初のうちは混乱して、怯えて、ただ息をしているだけで精一杯だった。

 何もない部屋でひとり座って放心しているだけで、傷の痛みをこらえているだけで、1日なんてあっという間に過ぎ去った。

 ……人間って、結構図太い生きものだと思う。

 どんなに過酷な状況に放り込まれても、生きようともがけば適応してしまう。

(でもこんなとこ、慣れる必要なんてない)

 早くここから出たい。

 ひとまず部屋の鍵を開けるために、フォークを手に入れることが目標だ。
 しかし、常にチャンスがあるわけじゃない。

 いつ来るとも知れない機会に備えて、今はこの退屈に耐えるしか出来ることがないのだ。
< 58 / 187 >

この作品をシェア

pagetop