幸せでいるための秘密
「恩着せがましいってどういうこと? 料理したり洗濯したりするのが恩着せがましいって?」

「そういうわけじゃないけどさ……」

「じゃないならなんなの。あのね、私だって仕事あるんだよ。共働きなんだよ。同じ立場なはずなのに、どうして私ひとりで料理とか掃除とか全部やらなきゃいけないの? なんでそれを当たり前だと思ってるの?」

「別にしろなんて言ってないだろ。お前が遅いときは俺だって自分の分くらい料理するし、披露宴の日にお前が遅く帰ってきても何も言わなかっただろうが!」

「ええ、何も言わなかったよ! おかえりも何もね!」

 濡れた布巾をぐしゃぐしゃに丸めてテーブルに投げつける。音を立ててクローゼットを開き、自分の服を片っ端から引っ張り出して鞄に詰め込んだ。

 彰良は何も言わなかった。ただ舌打ちして壁を蹴ってから、財布だけ持って部屋を出ていく。

 ひとりになってから、声を上げて泣いた。泣きながらひたすら、彰良の存在と入り交じってしまった自分の物を、必死に引き剥がし鞄に入れた。化粧道具、目覚まし時計、家族写真、百均で買った安物のコップ。歯ブラシは自分の分だけゴミ箱に捨てて、ヘアゴムの類もひとつ残らず処分した。

 どうせいずれそうされるのだから、跡を濁さず立ち去りたかった。膨れ上がった鞄を背負い夜空の下へ躍り出る。見慣れたドア。しっかりと鍵をかけてから、合い鍵をポストに滑り込ませる。

 カラン、と音がした。

 途端に首筋が寒くなり、私はスマホを取り出した。当然だけど着信はなく、まだ心のどこかで期待している自分を蹴り飛ばす。

 これでいい。

 遅かれ早かれ、こうなっていた。見て見ぬ振りをしていたつけが回ってきただけだ。

 いつまでも突っ立っているわけにいかない。歩き出そうとして、ふと気づいた。どこへ行くというのだろう。

 今から帰るには新潟の実家は遠すぎる。こんな時間に押しかけられるような親しい友達なんていない。

 会社……は、さすがにもう施錠されているはずだ。ええい仕方ないホテルに泊まろう、と近くのホテルを検索したが、どこもかしこも満室、満室、満室、満室。

(やばい)

 手が震える。指が白くなるほどに握りしめられたスマホは、私の気など知らずに無視を決め込んでいる。

 不意に、一人の男の顔が頭に浮かんだ。

 そうしてから、情けなくなった。こんなときに思い出すのが大学時代の元彼だなんて、成長していないにもほどがある。

 でも彼ならきっと、行き場のない私を二つ返事で受け入れてくれることだろう。ケーキバイキングの帰り道に言われた言葉が真実なら。

 とっくの昔に日は暮れた。

 このままでは冗談じゃなく野宿になってしまう。

 悩み、迷い、叫び出したくなるのを堪えながら、私は覚悟を決めてその名を押した。
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