幸せでいるための秘密
 そのとき、不意に外からガタガタと音が聞こえた。あ、と小さく呟いた彰良が、苦々しげに舌打ちをする。

 指が離れる。そのとき一瞬画面に映ったのは、間違いなく彰良の横顔だった。左側へ消えていったから、たぶん階段の方へと向かったのだろう。隣の部屋の人がちょうど帰ってきたのかもしれない。

 風景ばかりが映るモニターから、私は目を離せずにいた。心臓が熱い。いや、痛い。蛇に睨まれたねずみみたいに両足がすくんで、一歩でも歩いたらそのまま倒れてしまいそう。

(怖い)

 まだこの辺りに彰良がいるかもしれない。

(どうしよう。すごく怖い。震えが止まらない)

 つけっぱなしだったIHコンロの電源がピーと音を立てて消えた。慌ててお鍋の方を振り返り、おたまを落としたままだったことを思い出す。

 冷水でおたまを洗っていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。鼻で大きく深呼吸をする。いつまでも怯えてばかりじゃいられない。

 波留くんに電話をしようかと思ったけど、きっとまだ仕事中だろうからメッセージを送るだけに留めた。内容は簡素に、感情を載せずに。彰良が家の前まで来たこと、つきまとうのはやめるよう頼んだことだけを説明する。

 送信してすぐ既読がついた。それから一分もしないうちに着信が鳴った。

「波留くん?」

『すぐに帰る』

 予想外の一言、といったら噓になる。

 私はこれまで、彼の途方もない優しさと気配りの雨を、これでもかというほど全身で浴び続けてきたのだから。

『ドアに必ずチェーンをかけてくれ。家の前に着いたら電話するから』

「ありがとう、でも大丈夫だよ。まだ仕事あるだろうし、私はここでじっとしてるから」

『無理するな』

「無理じゃないよ」



『だって、怖かっただろ』



 じん、と。

 胸がほのかに熱を持つ。春の陽だまりに包まれたような、優しく心地よいあたたかさ。

 ガチガチに凝り固まった全身が少しずつほぐれていくのがわかる。私は今、安心している。さっきまであんなに不安で仕方なかったのに。

「波留くん」

 彼の言葉が、すべてを変えた。

「怖かった」

 電話の向こうで、波留くんがかすかに笑う。ドアの開く音と入れ替わりで、賑やかな夜の街の喧騒が少し遠くから聞こえてきた。

『素直に言ってくれて嬉しいよ』

 走るから一旦電話を切ると告げられ、私たちの短い通話は終わった。
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