幸せでいるための秘密



 午後八時過ぎ、椎名くんの家にやってきた波留くんは、私の顔を見るなり眉を下げ「悪かった」と謝罪した。

 いったい何に対する謝罪なのか私は少し迷ったけど、どうやら無断でストーカーの件を椎名くんに話したことへのものらしい。それについては前に言ったように、相手が椎名くんなら別に何の問題もないことだ。

 ただ、それ以外に、説明していただきたいことがいくつかある。……たとえばこの、私の洋服のすべてが入っている収納ケースが、ここにある理由とか。

「おい椎名、お前の家こんなに狭かったか?」

「なんも変わってないよ。俺にとっては日本滞在中の拠点でしかないし」

「前は確か畳の部屋があっただろ」

「ああ、あれ? ふすまブチ抜いて、畳をフローリングにしてリビングを拡張したんだよ」

「……いろいろと想定外だな。もっときちんと確認すればよかった」

「確認したところで、どうせ俺以外に頼る相手もいないくせに」

 大きな鞄を足元に置き、波留くんは部屋を見回して難しい顔をしている。

「あの、波留くん」

「どうした?」

「私だけちょっと、状況が飲み込めていないみたいなんだけど」

 部屋の片隅で正座をしている私を見下ろし、波留くんは「ああ」と納得したようにうなずいた。

「俺《《たち》》は今日からほとぼりが冷めるまで、椎名の家で暮らすんだ」

「ええっ!?」

 ……今の驚きは、私から出たものではない。

 いや、私だって本当は同じように「えーっ!?」と声を上げたかった。でもそれより早く、絶対に驚いちゃいけない人が驚きの声を上げてしまったのだ。

 波留くんは怪訝そうな顔をし、椎名くんをじろりと睨む。

「なんでお前が驚くんだよ」

「だって、待って、聞いてない」

「ちゃんと電話で話しただろ、事情も全部説明したはずだ」

「いやだから俺は、中原だけが俺の家に泊まると思ってたの!」

 ぴしっ、と。

 何かに亀裂の入る音が、どうやら私にだけはっきりと聞こえたようだ。

 私に完全に背を向けて、椎名くんの方へ向き直る波留くん。仕事帰りの彼の背中に、いつになく危険な空気が淀み漂っている。

「俺がそんなこと許すはずないだろ……?」

 地獄の閻魔大王の声って、きっとこんな感じなのかな?

 底冷えするような低い声に震える私をまるで無視して、椎名くんは一歩も引かずに唇をとがらせている。

「だって、なんで波留までついてくるの? 中原はわかるよ、やばいストーカーに追われてるから一人にしちゃだめだって。でも波留は違うでしょ、別に狙われてるわけでもないんだし」

「あのな、冷静に考えてみろ。お前みたいな女癖の悪いやつの家に、俺が中原を一人で預けると思ったのか? 自分の(しも)の制御すらできない男の家に?」

「せ、制御できてるから。失礼だな……だいたい俺ん家、二人も人を泊めてやれるほどの用意はないよ。マットレスだって二枚しかないし、ソファはこないだ捨てちゃったし」

「買ってこいよ」

「嫌だよ!」

 なんだか懐かしささえ覚える賑やかなやりとりをBGMに、私は椎名くんにもらったペットボトルの口を開けた。

 できることならこのお茶を飲み終えるまでに、二人の喧嘩が終わってくれればいいんだけどな……なんて思いながら。
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