幸せでいるための秘密
*
午後八時過ぎ、椎名くんの家にやってきた波留くんは、私の顔を見るなり眉を下げ「悪かった」と謝罪した。
いったい何に対する謝罪なのか私は少し迷ったけど、どうやら無断でストーカーの件を椎名くんに話したことへのものらしい。それについては前に言ったように、相手が椎名くんなら別に何の問題もないことだ。
ただ、それ以外に、説明していただきたいことがいくつかある。……たとえばこの、私の洋服のすべてが入っている収納ケースが、ここにある理由とか。
「おい椎名、お前の家こんなに狭かったか?」
「なんも変わってないよ。俺にとっては日本滞在中の拠点でしかないし」
「前は確か畳の部屋があっただろ」
「ああ、あれ? ふすまブチ抜いて、畳をフローリングにしてリビングを拡張したんだよ」
「……いろいろと想定外だな。もっときちんと確認すればよかった」
「確認したところで、どうせ俺以外に頼る相手もいないくせに」
大きな鞄を足元に置き、波留くんは部屋を見回して難しい顔をしている。
「あの、波留くん」
「どうした?」
「私だけちょっと、状況が飲み込めていないみたいなんだけど」
部屋の片隅で正座をしている私を見下ろし、波留くんは「ああ」と納得したようにうなずいた。
「俺《《たち》》は今日からほとぼりが冷めるまで、椎名の家で暮らすんだ」
「ええっ!?」
……今の驚きは、私から出たものではない。
いや、私だって本当は同じように「えーっ!?」と声を上げたかった。でもそれより早く、絶対に驚いちゃいけない人が驚きの声を上げてしまったのだ。
波留くんは怪訝そうな顔をし、椎名くんをじろりと睨む。
「なんでお前が驚くんだよ」
「だって、待って、聞いてない」
「ちゃんと電話で話しただろ、事情も全部説明したはずだ」
「いやだから俺は、中原だけが俺の家に泊まると思ってたの!」
ぴしっ、と。
何かに亀裂の入る音が、どうやら私にだけはっきりと聞こえたようだ。
私に完全に背を向けて、椎名くんの方へ向き直る波留くん。仕事帰りの彼の背中に、いつになく危険な空気が淀み漂っている。
「俺がそんなこと許すはずないだろ……?」
地獄の閻魔大王の声って、きっとこんな感じなのかな?
底冷えするような低い声に震える私をまるで無視して、椎名くんは一歩も引かずに唇をとがらせている。
「だって、なんで波留までついてくるの? 中原はわかるよ、やばいストーカーに追われてるから一人にしちゃだめだって。でも波留は違うでしょ、別に狙われてるわけでもないんだし」
「あのな、冷静に考えてみろ。お前みたいな女癖の悪いやつの家に、俺が中原を一人で預けると思ったのか? 自分の下の制御すらできない男の家に?」
「せ、制御できてるから。失礼だな……だいたい俺ん家、二人も人を泊めてやれるほどの用意はないよ。マットレスだって二枚しかないし、ソファはこないだ捨てちゃったし」
「買ってこいよ」
「嫌だよ!」
なんだか懐かしささえ覚える賑やかなやりとりをBGMに、私は椎名くんにもらったペットボトルの口を開けた。
できることならこのお茶を飲み終えるまでに、二人の喧嘩が終わってくれればいいんだけどな……なんて思いながら。
午後八時過ぎ、椎名くんの家にやってきた波留くんは、私の顔を見るなり眉を下げ「悪かった」と謝罪した。
いったい何に対する謝罪なのか私は少し迷ったけど、どうやら無断でストーカーの件を椎名くんに話したことへのものらしい。それについては前に言ったように、相手が椎名くんなら別に何の問題もないことだ。
ただ、それ以外に、説明していただきたいことがいくつかある。……たとえばこの、私の洋服のすべてが入っている収納ケースが、ここにある理由とか。
「おい椎名、お前の家こんなに狭かったか?」
「なんも変わってないよ。俺にとっては日本滞在中の拠点でしかないし」
「前は確か畳の部屋があっただろ」
「ああ、あれ? ふすまブチ抜いて、畳をフローリングにしてリビングを拡張したんだよ」
「……いろいろと想定外だな。もっときちんと確認すればよかった」
「確認したところで、どうせ俺以外に頼る相手もいないくせに」
大きな鞄を足元に置き、波留くんは部屋を見回して難しい顔をしている。
「あの、波留くん」
「どうした?」
「私だけちょっと、状況が飲み込めていないみたいなんだけど」
部屋の片隅で正座をしている私を見下ろし、波留くんは「ああ」と納得したようにうなずいた。
「俺《《たち》》は今日からほとぼりが冷めるまで、椎名の家で暮らすんだ」
「ええっ!?」
……今の驚きは、私から出たものではない。
いや、私だって本当は同じように「えーっ!?」と声を上げたかった。でもそれより早く、絶対に驚いちゃいけない人が驚きの声を上げてしまったのだ。
波留くんは怪訝そうな顔をし、椎名くんをじろりと睨む。
「なんでお前が驚くんだよ」
「だって、待って、聞いてない」
「ちゃんと電話で話しただろ、事情も全部説明したはずだ」
「いやだから俺は、中原だけが俺の家に泊まると思ってたの!」
ぴしっ、と。
何かに亀裂の入る音が、どうやら私にだけはっきりと聞こえたようだ。
私に完全に背を向けて、椎名くんの方へ向き直る波留くん。仕事帰りの彼の背中に、いつになく危険な空気が淀み漂っている。
「俺がそんなこと許すはずないだろ……?」
地獄の閻魔大王の声って、きっとこんな感じなのかな?
底冷えするような低い声に震える私をまるで無視して、椎名くんは一歩も引かずに唇をとがらせている。
「だって、なんで波留までついてくるの? 中原はわかるよ、やばいストーカーに追われてるから一人にしちゃだめだって。でも波留は違うでしょ、別に狙われてるわけでもないんだし」
「あのな、冷静に考えてみろ。お前みたいな女癖の悪いやつの家に、俺が中原を一人で預けると思ったのか? 自分の下の制御すらできない男の家に?」
「せ、制御できてるから。失礼だな……だいたい俺ん家、二人も人を泊めてやれるほどの用意はないよ。マットレスだって二枚しかないし、ソファはこないだ捨てちゃったし」
「買ってこいよ」
「嫌だよ!」
なんだか懐かしささえ覚える賑やかなやりとりをBGMに、私は椎名くんにもらったペットボトルの口を開けた。
できることならこのお茶を飲み終えるまでに、二人の喧嘩が終わってくれればいいんだけどな……なんて思いながら。