幸せでいるための秘密
授業帰りに大学の外を歩いているとき、突然後ろから肩を引っ張られた。
振り返った先にいたのは、例の二人組の片割れ、チナツ。
(久しぶりに嫌な奴に会ったな)
つい嫌な顔をしてしまった私だけど、彼女の様子はいつもと無礼な笑みとは違って、恐れるような、怯えるような、蛇に追われる小動物みたいな顔をしている。
「あんた、あの男に何させたの!?」
私の襟首を掴むなり、チナツは大声で言った。
「あの、男……?」
「波留君だよ! 波留樹!」
言われた意味がまったくわからず、私は目を白黒させる。
構わず、チナツは続けた。
「最近ずっとシオリが学校休んでて。部活にも来ないから何かあったのかと思ったら、今日連絡来て、大学辞めて働くことになったって」
「え……」
「お父さんがやってる会社が、突然潰れたって言うの。なんか、不当解雇がどうとか、損害賠償がどうとかって言ってたけど……とにかくすごい数の人がシオリの家の前に集まって、デモみたいに大騒ぎしてたんだって。庭に石を投げてきた人もいたみたいで、シオリ、怖いって泣いてた」
「…………」
「それでシオリのお父さんが、その代表の人と話し合いをすることになったんだけど……そこに、波留君が来ていたんだって。相手側の弁護士と一緒に!」
瞬間、あの日の波留くんの顔が脳裏にフラッシュバックした。俺が全部叶えてあげる。確か、彼はそう言った。
「これって、あれでしょ? うちらがあんたに嫌がらせしてたから、あんたが波留君に命令してやらせたんでしょ?」
「いや、そんな」
違う、……と言いかけた声が、喉の奥へと引き戻される。
本当に、違うの? 本当に?
あのとき私は波留くんに、全部の本音を吐き出した。その言葉の中には、こんな未来を求めるものもたくさん含まれていたんじゃない?
「嘘つくなよ! 今度はなに、私の番なの? そんなの嫌だよ、大学辞めたくないよ! ……ねえ、なんとかして! 謝るから!」
唾を吐きながら叫んだチナツが、突然顔を真っ青にすると私を突き飛ばして後ずさりした。
絶望に見開かれたチナツの瞳。そこに映されているのは、紛れもなく波留くんの顔……なのだけど。
(波留くん……?)
艶やかな切れ長の瞳からはいつもの優しさがまるで消え失せ、氷のような憎しみだけが冷たく彼女を射抜いている。もし彼が拳銃を持っていたなら、微塵も表情を変えないまま躊躇なく引き金を引くであろう憎悪と敵意と冷酷さ。今まで一度も見たことがない、凍てつくほどの陰惨さ。
「う……」
チナツはそのまま数歩下がると、声にならない悲鳴を上げて逃げるように去っていった。
私の隣に並んだ波留くんは、その背が本当に見えなくなるまで無言で眺めていたけれど、やがて私へ向き直ると恍惚とした笑みを見せた。
「百合香」
そして私の耳元に唇を寄せ、睦言のように囁いた。
「嫌な奴が消えて、よかったな」
チナツが大学を退学したのは、それからひと月後のことだった。
大学の掲示板にはチナツと既婚者の教授が腕を組んでホテルに入る写真が何枚も掲載されていて、大学側は火消しに躍起になったという。