幸せでいるための秘密



 目覚めた瞬間、全身にじっとりと汗をかいているのがわかった。

 頭は完全に覚めているのに、身体はまだ眠ったまま。枕もとのスマホへ手を伸ばしたいけど、上手に動かすことができない。

 嫌な夢だった。

 昔の夢だ。

(ああ、そうだ。思い出した)

 波留樹は危険な男。

 そう思ったから、私は彼との別れを選んだ。

 自分の言葉ひとつで誰かの人生が変わる恐怖。危険な行為に嬉々として手を染め、そこへ疑問も呵責も抱かない恋人。あまりにも大きく、あまりにも純真な波留くんの愛を、私は受け止めてあげることができなかった。

 私が別れを切り出したとき、彼はなんと答えただろう。目を見て話ができなかったから、彼のスニーカーの黒い紐だけは、今でも鮮明に覚えている。

 ええと、確か……



「『それが百合香の幸せになるなら』」



 静まり返った心の水面に、その言葉が波紋を広げた。

 キッチン、いや、ダイニングの方に、小さな橙色の明かりが灯っている。ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、波留くんと椎名くんが小さな声で話をしているようだ。

「――このくらい、安いものだ」

「はあ、信じられない話だね。だいたい、いきなり『一週間以内に引っ越せる二人用の部屋を教えてくれ』なんて言うから驚いたんだよ? まあ親父は大喜びだったけど」

「叔父さんには感謝しているよ。突然だったのに良い部屋を見つけて、しかも安く貸してくれて」

「親父は波留に甘いからねぇ」

 椎名くんは笑いながら、おつまみのチーズを少しずつかじっている。

 椅子の背もたれに寄りかかり、ビールの缶を軽く左右に振りつつ、波留くんはゆっくりと長い足を組み替えた。

「でも事実、すべて俺の描いたとおりになっただろ」

「それはそうだけどさ。……ああそうそう、俺が紹介した劇団はどうだった?」

「十分役に立ってくれたよ。痴話げんかと歌い手はともかく、ピットブルは少しやりすぎだと思ったが、よくよく見たらあれは大きめの猫だったな」

「面白いでしょ。ピットブルって名前の猫らしいよ」

 引っ越し? 劇団?

 これはいったい、……どういうこと?

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