初恋カレイドスコープ
ポケットから黒い手帳を取り出し、社長代理はわざとらしく咳ばらいをした。その表紙を見上げた瞬間、傍らのタレ目気障男が「ヒッ」と声を上げたのがわかった。
「えーとどれどれ?
『多くの社員に積極的に声掛け』
『個々の不満を細かく吸い上げ、共感を示す』
『残業の多い独身男女を中心に、子持ちとの対立を促すような扇動を行う』
……ははあ、これは独立のお仲間を増やすための作戦かな? んー?
『椎名一華・椎名玲一の人格を貶め、会社への帰属意識を削ぎ落とす。具体的には別途人を雇い、雑誌記事やSNSを用いた中傷を……』
……おっと? これはもしかして、ここ最近妙に活発だったSNSのことですかぁ?」
静まり返った部屋の中では、さっきまで赤ら顔でわいわい騒いでいた社員たちが、皆一様に視線を下げて真っ青な顔で目を泳がせている。
お通夜のような重苦しい空気の中、あたりを大袈裟にぐるりと見まわし、社長代理はため息を吐いた。
「……あのね、ただの起業なら大いに結構。退職でも独立でも、なんでも好きなようにやればいい。でもな、会社の情報をこっそり盗んだり、仲間を増やすために俺個人の誹謗中傷を行うのは違うだろ? 明らかに度を超えた行為だ。黙って許すわけにはいかない」
「…………」
「ちなみに、退職時の悪質な引き抜き行為については、会社側からの損害賠償請求が認められた例がある。これについては顧問弁護士にずっと準備をさせていてね。……ここにいる奴ら全員を訴えたら、俺は一体いくら儲けることになるのかな? 名前を呼んでやろうか、被告人諸君……」
別の紙をパッと開いた社長代理が、朗々とした声で名簿を読み上げ始めた。副社長、青木守。秘書課、鮫島靖子。会計課、山本大樹、矢野裕子、佐光要……。
名前を呼ばれた社員たちが次々にうなだれていく。頭を抱えたり、顔を覆ったり、「すみませんでした」とうめきながら崩れ落ちる者もいる。
それらすべてを存在しないもののように無視しつつ、社長代理は上から順にどんどん名前を読み進めていく。そうしながら一人一人の顔を目に焼き付けるみたいに、獲物を見据えた猫の瞳を大きく見開いて笑っている。
「営業課、松谷恵子、池田愛菜、松岡颯太……」
その視線が名簿の一番下まで渡り、そして彼がゆっくりと顔を上げたとき、当然のようにその瞳はうずくまる私の顔をとらえた。
目が合った瞬間、時が止まった。
口角の上がった唇が、その形のままわずかに震える。引き攣る頬。見開かれた大きな瞳が、瞬きを忘れた彫像のように光を失い闇を映し出す。
一瞬とも永遠ともつかない沈黙を経て、社長代理は空気の抜けたように、ふっと、かすかな笑みを浮かべた。達観したような、納得したような――すべてを諦めたような、微笑み。
「……秘書課、高階凛」
違うんです、と。
声をあげたくて開いた口から、出てきたのはかすれた音だけ。何もしていないはずの喉は痛みを覚えるほど乾いている。
「……お前たちには明日以降も変わらず出勤してもらって構わない。ただ、今回の企てについてはすべて社内に公表させてもらう。辞めるも残るも好きにしろ。ただし、残ったところで今後出世の道が拓けるとは思うなよ」
最後にもう一度部屋を見回してから、社長代理はきびすを返すと、片手で乱暴にドアを開け足早に店を出て行った。残された店内では沈黙の中で、敗北を刻み込まれた社員たちがただ呆然自失している。
カランと揺れるドアのベルの音が、少しずつ小さくなっていく。やがて、その音が完全に聞こえなくなったころ、私は弾かれたように立ち上がった。