初恋カレイドスコープ
第十三章 窮鼠のひと噛み

 すべて社内に公表する、と社長代理は言った。

 でも蓋を開けてみれば、名前が公にされたのは青木副社長と鮫島先輩だけ。独立の企てと情報漏洩、そして誹謗中傷を裏で操っていた首謀者として、正式に諸々の賠償を請求する運びだという。

 でも当然、社内の噂は私たちを放っておいてはくれない。あのとき名前を読みあげられた社員たちについては、ある者は心身の不調で休職、ある者は早々に退職、そしてある者は周囲の視線に怯えながら出社を続けている。

 私は――三番目。

 悪質な独立に賛同した一員として、出世の道が閉ざされたことは十分理解しているけど、今日も私は今までと変わらず死んだ顔をして会社に来ている。

「あの……私に何か、できることはありませんか」

 秘書課の先輩にそう声をかけると、曖昧に笑って「特にないかな」と袖にされてしまった。先輩の机にはどっさりと仕事が積み上がっているのが見える。今まで鮫島先輩がこなしていたタスクが、今や皆さんに振り分けられているのだから当然だ。

 それでも私に仕事をさせてもらえないのは、もはや信頼がないからだろう。すっかり秘書課の窓際族と成り果てて、私はため息とともに席に着く。

(つらい)

 仕事を貰えず腫れもの扱いで、六十歳までこのままなのかな。

 働かずに給料がもらえる窓際族はうらやましい……なんて言う人もいるけど、正直私には耐えられそうにない。何もせず椅子に座っていると時間の流れが本当に遅く感じるし、頭の中でぐるぐると余計な考えが巡り始める。

(苦しい。泣きそう)

 自尊心がぼろぼろと崩れていくのがわかる。あれから何度か颯太くんから連絡が来たけど、どうしても彼と話したくなくて結局無視してしまっている。

 オフィスにいるだけでも息が詰まって、お昼のチャイムが鳴ると同時に私は部屋を飛び出した。ビニール袋を引っ掴んで、逃げるようにビルの外へ出る。

 どこでもいい。一人隠れて、ご飯を食べられるところはないか。

 すれ違う人がみんな私を見てくすくす笑っているような気がする。人の視線が、好奇の噂が、ただただ怖くて仕方ない。

(社長代理はたったひとりでこの恐怖に耐えていたんだ)

 今更ながら彼の強さがひどく眩しく輝いて見える。ひとりぼっちで戦い続けた、彼はどんなに孤独だっただろう。

 れいいちさん。噛み締めるように名前を唱えたとき、赤信号で停まったタクシーが視界の端に入り込んできた。窓の向こうに見えるのは、社長代理――と、秘書課の先輩。

 大きな瞳が隣に向かって穏やかに弧を描くさまが見える。リラックスしたように緩む口元。あの唇がどんな話を楽しそうに語っているのか、タクシーの外にいる私には当然聞こえるはずもなくて。

「……う、あ」

 胸が押しつぶされそうに痛い。

 視界が惨めにぼやけてきた。

 歩道で立ちすくむ私の隣で、軽薄な信号が青へと変わる。動き出したタクシーは私の姿に気づくこともなく、あっという間に明るい都会の中へと走り去っていった。
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