婚約破棄されたので、好きにすることにした。
 前世を思い出してから、『橘美沙』としての記憶が強くなっている。
 もちろんクロエも自分だという認識はあるが、過去のことはほとんど覚えていなかった。
 エーリヒが大切に思い、守ろうとしているのは今のクロエではない。
 前世の記憶がなかった頃の、気弱で優しい『クロエ』。
(どうしよう……。私は……)
 記憶がはっきりとしていないせいで、彼が言っているのは間違いなく自分のことなのに、エーリヒを騙しているような感覚に陥ってしまう。
「クロエ?」
「……嫌っ」
 そんなことを考えていたせいで、差し出された手を思わず振り払ってしまった。エーリヒの顔が強張るのを見て、罪悪感が沸き起こる。
「ごめんなさい。昔のことを考えたら、お父様やキリフ殿下のことまで思い出してしまって」
「……そうか。クロエにとってはつらい過去だ。それなのに思い出させるようなことを言ってすまなかった」
 エーリヒが謝る必要なんてなかった。
 クロエはもう、父のこともキリフのことも恐ろしいとは思っていない。
 彼らの考えが偏った歪なものだと理解しているし、逃げる力だってある。
< 126 / 266 >

この作品をシェア

pagetop