偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「――仕事、続けたいわ」
「え?」
「結婚しても仕事を続けたいの」
「ああ」
りとの肩を撫でる。
「トーウンの保育園ができたら力登をそこに預けて、フルタイムで働きたい」
「ああ」
ゆっくりと胸の膨らみに手を這わす。
「家事が疎かになることも――」
「――俺がやる」
焦らず胸の形をなぞり、脇腹から尻へと指を滑らせる。
「理人の帰りを待てずに寝ちゃうことも――」
「――構わない」
顔を寄せ、彼女の首筋にキスをした。
「子供ができても助けてくれる母親はいないけど――」
「――俺の母親も助けてはくれないが、俺が育休も有休も全部使ってそばにいる」
「理人――」
「――限界だって言ったろ?」
キスしたところに軽く歯を立てた。
「んっ……」
「仕事を続けるのは構わないし、力登を預けるのは保育園でもベビーシッターでも構わない。りとの負担にならないのであればフルタイムで働いてもいいし、家事は俺もやるし家政婦を雇ってもいい。あとは? ああ。疲れて俺の帰りを待てずに寝ても気にしない。たまにいたずらして起こしても、許してくれるならな。子供ができたら母親なんか頼らずに俺を頼れ。他には? 心配なことがあるなら早く言え」
「そんな言い方――」
「――早く抱きたいんだよ。いや、その前にプロポーズの返事!」
りとの顔の横に両肘をつき、ぐいっと顔を近づける。
「わかっていても聞きたいんだよ」
「……どうしてそんなに――」
「――理屈じゃねぇよ」
りとの両手が俺の背を抱き、引き寄せた。
「返事を聞きたいんじゃないの!?」
「聞きたいよ」
「封筒は?」
「え? あ――」
りとは素早くベッドから下りると、上質なカーペットの上を足音もなくドアに向かう。
そして、恐らく部屋に入ってすぐに放り出されたであろう封筒を持って戻って来た。彼女のバッグも一緒に。
それから、窓際のテーブルの上に、封筒の中から取り出した婚姻届を広げる。
「りと?」
彼女はバッグから、さっき母さんがサインに使ったボールペンを取り出し、テーブルに置いた。
「理人」
りとが俺に背を向けたまま、窓の外を見て言った。
「ん?」
「私は父を許せないわ」
「え?」
「私の父が母を刺したのは、母が私を庇ったからなの」
「……」
「あの時のこと、正直よく覚えていないの。でも、ひとつだけ確かなことがある。母を刺した包丁は、私目がけて振り下ろされたものだった」
事件についての新聞記事や、裁判記録を読んだが、そんなことはどこにも書いていなかった。
ほぼすべての記事と記録に。夫婦喧嘩の末、酔った夫が勢いで妻に包丁を向けた、とあった。
「子供相手に刃物を向けただなんて知れたら罪は重くなるから、夫婦喧嘩ということにしようと決めたらしいの」
「決めたって、いつ?」
「救急車が到着する前。私の母親は、刺されて意識が朦朧としながらも、私に、父親に殺されかけたなんてトラウマを植え付けてはいけないと思ったみたい」
なんてクソ野郎だ。
そんなことをしておいて、のこのことりとに会いに来ただなんて。
「でも、私は覚えていた。そして、母親の病気がわかってすぐに確認もした」
振り向いたりとは、情けない姿の俺を笑うことなく真っ直ぐ見た。
「理人のこと、好きよ。愛してる。結婚したいと……力登の父親になってほしいと思ってる。だけど……」
愛を告白するには似つかわしくない、思いつめたような表情。
りとにとって結婚は甘いものじゃない。
最初の結婚は甘い生活を夢見ていたかもしれないが、無残に打ち砕かれた。
父親に殺されかけ、夫に息子を殺されかけた彼女にとって、俺のプロポーズを受け入れることはきっと、俺が思うよりもっとずっと覚悟が必要なのだろう。
そして俺は、それでも彼女に頷いてほしいと望んでいる。
そのためには、きっとどんなことでもできてしまう。
だから、だからこそ、りとには自分の想いを自分の言葉で伝えてほしい。
俺は、じっと彼女の言葉を待った。
この期に及んで、胸の奥で不安が膨らむ。
表情に出していないつもりでも、隠しきれていなかったのかもしれない。
りとが、少しだけ口角を上げた。
頬がピクピクと動いたかと思ったら、ギュッと目を閉じる。
眉をひそめ、涙を堪える姿すら、愛おしい。
「……っ」
歯を食いしばり、ゆっくり鼻呼吸で気持ちを落ち着ける様を、じっと見つめる。
りとは堪えきれずに溢れた一筋の涙を手の甲でグイッと拭い、俺を見据えた。
それから、立ったまま前屈みになり、婚姻届にペンを走らせた。
俺が贈ったドレスを着て、険しい表情で涙を浮かべ、殴り書き同然に婚姻届を埋めていく。
俺は、彼女のその姿を一生忘れない。
絶対に――!
書き終えたりとはペンをテーブルに置き、婚姻届を持つと俺の目の前に広げた。
「力登に悪意を向けたら、殺すわ」
なんて色気のない本気の宣言。
目の前の婚姻届に愛する女の名前を見て、それに手を伸ばす。