偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

 覗き込むと、気まずそうに視線を逸らされた。頬や首、耳たぶまで赤らめて。

 このひと月の思いつめた彼女の表情を思い出せば、こんな風に感情的に表情を変えてくれるのは気を許してくれているのだろうと嬉しくなる。

「俺が好きでやってることだ。ただ、やり過ぎなら止めてくれ」

 ほんの少し口角を上げたりとが、ベッドに片手をついて俺に顔を寄せる。

 今度は彼女が俺の頬にキスをした。

「セックスも?」

「それに関しては、言葉じゃなくて身体に聞くよ」

 唇を開いたのは同時。

 突き出した舌同士が触れ、絡まる。

 二人とも冷たい水を飲んだ後だから、当然舌も冷たい。

 火照りだす身体には心地良いが、一瞬のことだ。

 と思ったら、二の腕がピリッと痛みにも似た冷たさを感じた。

 見ると、りとの持っていたペットボトルから水が数滴、俺の腕に零れている。

「あ、ごめんなさ――」

「――風呂に入ろう」

「え?」

「お湯を溜めているのを忘れてもう一回スルところだった」

 彼女のペットボトルのキャップを閉めてテーブルに置く。

 その時、スマホがヴヴッと震えた。

 怜人からのメッセージ。

「あ~……」

 メッセージを読んで思わず唸ってしまったことに大した意味はないが、りとは気になったようだ。

「なに?」

「バスローブ着てて」

 俺はりとにスマホとバスローブを渡し、バスローブを脱いでワイシャツを羽織る。

「あ、私も――」

「――いい。そんな明らかに事後ですって顔で出てくるな」

 りとがハッとして自分の顔に手を当てる。

 俺はクスリと笑うと、彼女の頬にキスをした。

「風呂に入ってろ。俺は後で力登と入る」

 りとは頷き、バスローブを羽織った。

 部屋のベルが鳴り、りとがバスルームに入ったのを確認して、ドアを開ける。

「しっちょー! あんねぇ――」

「――お……っと」

 足にしがみつくように突撃してきた力登が、俺を見上げて一生懸命に話し始める。

「これ! ワンワンしっちょー」

 力登が黒い犬のぬいぐるみを高く上げて、俺に見せる。

 ぬいぐるみは眼鏡をかけていた。

 欣吾が俺に似ていると茶化したスタンプのドーベルマンによく似ている。

「りき、しっちょーとねんねなの」

「そっか。良かったな」

 しゃがんで力登の頭を撫でる。

 怜人からのメッセージにあった通り、目が真っ赤で、泣いたのがすぐにわかった。

【力登くん、部屋に来てすぐに寝ちゃったんだけど、泣きながら起きて兄さんを呼んでる。連れて行っていい?】

 怜人のメッセージに、俺はドーベルマンが直角に腰を折って『頼む!』と言っているスタンプを返した。

「りき、にーちゃなの」

「早いな」

「ワンワンしっちょーとねんねできんだ!」

 強がっているのがバレバレだ。

 瞳を潤ませ、ぬいぐるみを強く抱きしめる姿を見て、おやすみと言って帰せるはずがない。

「力登は偉いな。俺は兄ちゃんだけど力登と一緒に寝たいんだけどな」

「おっけー!」

 笑顔で被せてくる力登。

 頭の上で、怜人がくくっと笑う。

「力登くん。僕の兄ちゃんは寂しがりやだから、力登くんが一緒にねんねしてくれて嬉しいよ」

「おう!」

 俺はもう一度力登の頭を撫でてから、抱き上げた。

「じゃ、寝る前に風呂入るか」

「ワンワンしっちょーも?」

「あ〜……、こいつには熱すぎるかもな」

「じゃあ、兄さん。僕は――」

「――ああ。助かったよ。ところで、このぬいぐるみは力登が持ってきたのか?」

「西堂のお手伝いさんて人が持ってきたりとさんと力登くんの荷物の中にあったんだ。これ、その荷物ね」

 怜人が、廊下に置いておいたキャリーバッグ二つを部屋に運び込む。

 その時、怜人のスマホの画面を見せられた。

【西堂に捕まえられた時を思い出したみたい。ぱぱんって泣いてた】

 思わず、力登を抱く腕に力が入る。

「落ち着いたら新居に呼んでよ。紗南も力登くんともっと遊びたいって」

「わかった。ありがとな」

「うん。じゃあ、またね。力登くん」

 怜人が力登の頭を撫でるが、反応がない。

「あれ、安心したら寝ちゃった?」

 見ると、ぬいぐるみを抱いて目を閉じている。

「連れて戻ろうか?」

「いや、いい。目が覚めたらまた泣くかもしれないからな」

「そだね。っていうか、すっかりパパだね、兄さん」

「お前もこうやって寝かしつけたけど?」

「記憶にないなぁ。じゃ、おやすみ」

 怜人がひらひらと手を振って出て行った。 



 まったく、デカくナマイキになったもんだ。



 俺は力登を抱いたままベッドに行くと、乱れていないベッドに腰かけた。

 力登を寝かせようと、彼の後頭部に手を添えて身を屈め、やめた。

 力登が俺のシャツの襟を掴んでいる。

 ベッドヘッドに枕を立てかけて、俺はそこにもたれるように座った。

 足を伸ばし、腹の上に力登を抱く。

 温かい。

 力登と俺の胸に圧し潰されているぬいぐるみを覗き込む。



 じーさんがドーベルマンを飼ってるって知ったら、喜ぶかな。



 バスルームからはシャワーの音が聞こえる。

 本当なら、りとと風呂に入ってもう一度スるつもりだった。

 いや、今からでも力登をベッドに寝かせてバスルームに突撃すればいい。

 力登はぐっすり寝ているから、よほど大きな声を上げなければ起きないだろう。



 けどなぁ……。



 安心しきって眠る力登の穏やかな息遣いを聞きながら、目を閉じる。

 セックスより子守とは。



 誤算だらけだよ……。




 それも悪くない。

 ふっと自分に笑うと、腕の中の力登も釣られるようにふふっと笑った。



 ま、いいか。



 力登の幸せそうな寝顔にキスをする。

 いつの間にかシャワーの音は止んでいた。

 そんな気がした。
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