偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~



*****


「りき、しっちょーとねんねなの」

 ドア越しに聞こえた声に、息子の嬉しそうな表情が浮かぶ。

「ワンワンしっちょーとねんねできんだ!」

 寝つきも寝起きも良い力登が泣きながら目を覚ましたと聞き、登さんとのことでショックを受けているのではと思った。

 私ではなく『しっちょー』を呼んだのは、きっとあの時自分を助けてくれたからだと。

 ならば、ワンワンと寝られるアピールは、寂しさの裏返しだろう。

 最近になって、強がるようになった。

 成長ならいい。

 西堂家での自分の立場や私への気遣いから察してのことならば、悲しいことだ。

 出て行こうかと思った。

 出て行って、一緒に寝ようと言ってあげたい。

 ドアノブに手をかけた時、理人の声が聞こえた。

「力登は偉いな。俺は兄ちゃんだけど力登と一緒に寝たいんだけどな」 

「おっけー!」

 その言葉を待っていましたというも同然の、被せ気味な力登の返事。

「じゃ、寝る前に風呂入るか」

「ワンワンしっちょーも?」

 聞き耳を立てているのがバレてしまうと、慌ててバスローブを脱いでバスルームに行く。

 ドアを閉めて、シャワーのコックを回す。

 サーッと細かいお湯の粒が髪や肌を濡らす。

 気持ちいい。

 商品名も商品説明も英語で書かれている、いかにも高そうないくつかのボトルの中から、洗顔フォームらしき表記を見つけて、手に取る。

 柔らかいクリームを手に伸ばし、顔を洗う。

 疲れた。

 六時間前は、今日がどんな日になるのかわからなかった。

 婚約パーティーに疑問を持ちながらも、もしも本当だったらと不安だった。

 それが、まさかの断罪パーティー。



 疲れた……。



 顔を上げてシャワーで泡を流し、首を回す。

 じっと霧雨のようなお湯に当たっていると、こうしている現在(いま)が現実なのだろうかと不安になった。

 それを振り払うように力を入れて髪を洗う。



 大丈夫、夢なんかじゃない。



 シャンプーが目に染みて涙が止まらない。

 ついさっきまで感じていた理人の腕の力強さや、温もり、下腹部に残る余韻と怠さ、私を呼ぶ甘い声。



 全部、ちゃんと覚えてる……。



 そう思ったら、足が震えた。

 壁に手をつき、ゆっくりとその場に座り込む。

 はぁ、と息を吐いて、吸い込む。

 シャワーを止めて、バスタブの縁を掴んで立ち上がってそのままバスタブに入った。



 あったかい……。



 縁に頭をのせて天井を眺め、目を閉じた。

 こうして、なんの心配もなく、時間を気にすることもなくお風呂に入れるなんていつ振りだろう。

 世の母親たちが思う、大したことがなさそうで切実な願い。

 まだ、はしゃぎすぎてバスタブの中で転んでしまうこともあるし、お風呂用の椅子を使っても首まで浸かるのは危険だから、いつもお湯は少なめで、私の肩は少し冷えてしまう。

 だから、顎までお湯に浸かって温まれるだけで幸せだ。

 とはいえ、理人と力登も入るのだから、長風呂はできない。



 力登がこなかったら、一緒に入るつもりだったよね……絶対。



 無意識に触れたお腹の奥に残る彼の熱に、気恥ずかしさから口の端がムズムズする。

 痛いくらい大きくて硬くなっていた理由が、自分だと思うと嬉しい。



 子供……か。


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