偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~


*****


「で、婚姻届を出しちゃったんだ」

 東雲専務が机に肘を立て手を組み、じとっと理人を睨む。

「出しちゃった、ってなんだよ?」

「いや、如月さんがいいなら――」

「――俵」

「は?」

「もう、如月じゃない」

 理人が眼鏡のブリッジを指でクイッと上げる。

 私ははたと考えた。

「お前――」

「――会社ではこのまま旧姓でお願いします」

「はっ!?」

 理人がぐりっと首を回して私を見た。

「なんでっ!?」

「え? や、だって、同じ秘書室内に同じ名字がいるのは紛らわしいので」

「俺は室長と呼ばれているから問題ない」

「ですが――」

「――大丈夫だ」

 理人の正面に座る社長が真顔で言った。

「『(たわら)っち』と『(たわら)ん』で呼び分けたらいい」

「…………」

 専務室の温度が三度は下がった気がした。

「お義父(とう)――社長。それはちょっと……」

 社長の隣に座る梓さんが苦笑いして、私を見た。

 私もまた、苦笑いするしかない。

 社長は「え? ダメ?」と首を傾げているが、理人と専務の鋭い視線に肩を落とした。

「ま、紛らわしいのは確かだから、旧姓のままで――」

「――だめだ」

 理人がぴしゃりと言った。

「それじゃあ、俺たちの結婚が知られないだろう」

「隠す必要もないが、わざわざ知らせる必要も――」

「――自分は結婚前から見せつけてただろう」

「状況が違うだろうが」

「どこが? 婚約解消した梓ちゃんに悪い虫がつかないように拡散しろって俺と欣吾に――」

 専務がバンッと両手で机を叩きながら立ち上がる。

「――おい! 今それを――」

「――せこっ! 皇丞、いくら梓ちゃんが好きすぎるからって、そんな――」

「父さんにだけは言われたくない!」

「お前っ、親に向かって――」

「――はいっ!」

 行き先がわからなくなった話をピシャリと停止させたのは、梓さん。

 真っ直ぐ手を上げた彼女を、全員が注目する。

「旧姓を使うのにさんせーです! 必要以上に拡散する必要もないと思いまーす」

「梓ちゃん!?」

「私も旧姓が良かったし」

「梓!?」

「二人が思うより仕事しにくいですよ!? 気も遣われるし」

 確かに、トーウンコーポレーションで東雲姓を名乗っていれば、社長の身内ですと公表して歩いているようなものだ。

「そりゃ、梓ちゃんはそうかもしれないけど――」

「――俵さん。自分がモテるのわかってて言います!? あの! 社長秘書の奥さんともなれば、そりゃあ注目の的ですよ!?」

「~~~っ」



 梓さん、すごい……。



 さすが、一社員でありながら上司であり次期社長と結婚し、働き続けるだけの女性だ。

 今日も、専務の反対を押し切って出社したという。

 つわりが治まったから復帰するのだと。

 けれど、心配性の、いや梓さん限定で超過保護な専務は大反対。

 専務室でそんなこんなの言い合いをしていたら、社長と理人がやって来てこの有様というわけだ。

「確かにりーくんはモテる。ツンデレというやつだな。いつもツンツンしてるのに、たまにデレられると――」

「――社長。まるで私が社長相手にデレているような誤解を招く発言はやめてください」

「え? だって――」

「――とにかく! 如月さんが旧姓のまま働くかは如月さんが決めることでしょう? 俵さんは口出ししない!」

「いや、梓ちゃん。これは夫婦でじっくり――」

「――『(たわら)っち』と『(たわら)ん』て呼ばれたいんですか?!」

「――――っ!」

 理人が黙る。

 今度は専務が苦笑い。

「俵さんはきさ――りとさんと幸せいっぱいなのを見せびらかしたいのかもしれないですけど、女性の半分は他人の幸せを妬むんです。それも、いいなぁなんて程度じゃなくて、ムカつくってレベルで。そうすると、粗探しを始めるの。年上だとか子持ちだとか弱みを握ってるんじゃないかとか、薬使って既成事実を――」

「――梓。最後のは俺たちが言われたこと」

 いつの間にか梓さんの背後に移動した専務が、彼女の口を塞ぐ。

「まぁ、とりあえず当面は旧姓のままでもいいんじゃないか? 如月さんの気持ちが変わるなり、理人の説得に応じるなりして変えたくなったらその時にそうすればいい」

 理人は不満そうだったけれど、ひとまずこの場で結論は出さなかった。

 俵姓を名乗るのが嫌なわけではない。

 ただ、ついひと月ほど前に体裁の良くない噂が流れたばかりだ。

 また注目されるのは嫌だった。

 というのは建前で――。

「気恥ずかしいですよね」

 梓さんの言葉に、私は頷いた。

 十二時少し前に、梓さんとランチに行くと出て行った専務からの内線で広報部に行った私は、大事な電話を待たなければならなくなった専務に代わって梓さんとランチに出た。

 つい数日前に一緒に食事をしたカフェ。

 梓さんの希望だ。

「『あれが御曹司の嫁だって』とか聞こえる声で言われたりするの、気にしないようにしててもやっぱり気になっちゃうんですよね。私も社内で噂が多かったんで」

「そうなんですか?」

「あれ? 聞いてませんか?」

 梓さんは今日も梅しそ冷製パスタを注文した。

 つわりが治まっても梅の酸っぱさを求めてしまうらしい。

 私も同じものにした。

 前回、それを食べている梓さんを見て、次に来たら注文しようと決めていた。

「私、社内恋愛してたんです。経理部にいた同期と。婚約もしてました」

「初めて聞きました……」

「俵さんはそんなことわざわざ言いませんよね」

 梓さんが笑ってソーダ水を飲む。

「部下に婚約者を寝取られちゃって、ついでに仕事も奪われそうになったんです」

「専務が猛アプローチしたって聞いたんですけど……」
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