偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

 母親ならば誰もがそうだろうが、子供の声で「ママ」と聞こえたら、声の主を探さずにはいられない。

 私はキョロッと辺りを見て、ゲートの向こうで手を振る愛息子を見つけた。

「力登!?」

 お客様の前であることも忘れて、私は社員証をかざしてゲートを出た。

「ママ! おかーり!」

「どうして――」

「――お、か、え、り!」

 全力で言うから、エントランス中の視線を集めた。

「ただいま。力登、どうしてここにいるの?」

「パパがっ! ママおむかぇいこーって!」

「えっ!?」

「お疲れ」

 力登の背後には、スーツのポケットに手を突っ込んで楽しそうに笑う理人。

「どうして――」

「――えんちょーせんせーだ!」

 園長と主任を見つけた力登が駆けだす。

「こんにちは、力登くん」

「こんちゃー!」

「パパと、ママを迎えに来たの?」

「うん!」

 力登は、家では「おう」と言うが、外では「うん」と言う。

 幼いながらに使い分けているのだと知った時は、驚いた。

「偉いわね」

「うん!」

 園長と主任に褒められて上機嫌の力登は、周囲の視線に気づいていない。

「では、私たちはこれで失礼します。今後ともどうぞよろしくお願いします」

 園長と主任が深々と頭を下げ、私たちも同様に礼で返す。

「こちらこそ、本日はありがとうございました」

「力登くん、バイバイ。また来週ね」

「うん! バイバイ」

 手を振って二人を見送る力登の周囲では、足を止めた大人たちがひそひそと話し込んでいる。

「あの子、如月さんの子? ほら、不倫してたっていう秘書の――」

「――でも、俵室長と一緒にいたわよね?」

「専務じゃなくて室長狙いだったってこと?」

「あれ? 室長って隠し子がいたんじゃ――」

 はっきりとは聞こえなくても、おおよその会話は聞こえる。

 折角噂が鎮火したと思ったのに、新たな火種を落とすとは。

「おーおー。言われてるなぁ」

 理人が力登を抱き上げ、私に言った。

「この場合、力登は俺の隠し子か、不倫の末に子供を産んだりとが俺を誑しこんだのか」

「ふざけないで。どうして――」

「――契約締結まで待ってたんだ。もう、いいだろ?」

「なにが――」

「――あ~~~っ! また、俺だけ除け者にして!」

 力登に負けない大声に振り向くと、エレベーターを降りた栗山課長がツカツカと近づいてくる。

 三か月前のパーティーの数日後、理人の助けになってくれたと紹介されて挨拶したが、その時のこざっぱりとした印象とはまるで違う、伸び放題の髪に顔半分が隠れてしまった冴えない風貌。

「お、ナイスタイミング」

 理人が呟く。

「理人! いつになったら、ちゃんとお嫁ちゃんと息子くんを紹介してくれるんだよ!」

「りとのことは紹介しただろ?」

「さらっとな? 親友の結婚だぞ? もっとちゃんと祝いたいだろ」

「え? 結婚?」

「室長が? 如月さんと?」

 栗山課長の言葉に、エントランスが騒めく。

「私も、栗山課長と同感です」

 いつの間にいたのか、又市さんがトレンチコートを着て、肩にバッグをかけて立っていた。

「公にしたくないようなので控えておりましたが、お祝い申し上げたいと思っておりました」

「又市さん」

「俵室長、如月さん、ご結婚おめでとうございます」

 美しい立ち姿で、ゆっくりと頭を下げられる。

 反射的に私も頭を下げた。

「ありがとうございます」

「事実無根の噂など気にする必要はありませんよ。役員一同、秘書室一同、お二人の幸せを願っています。お二人を貶めるような発言やその拡散は、社長をはじめとする役員を敵に回すも同然ですから」

 彼女の少し低めで、落ち着いた、けれど断固とした声色に、周囲が息を呑む音が聞こえた気がした。

 たかが噂話で役員に目をつけられては堪らないだろう。

「事実無根、なんですか?」
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