偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
社員たちが遠巻きに私たちを見ている中、黒髪をうなじでひとつに束ねた女性が数歩前に出て聞いた。
重めの前髪で目元が良く見えないが、恐らく二十代半ばくらいだろう。
「如月が過去に不倫していたとか、俺に隠し子がいるって噂のことなら、事実無根です」
理人の言葉に、女性は表情を変えることなく頷いた。
「そうですか」
「ああ、それから、如月が専務や俺に色目を使っているっていうのも、デマ。むしろ、色目を使ったのは俺なので」
「理人」
そんな、また好奇心を煽るようなことを言わなくても。
私の制止に、理人は優しく微笑む。
「事実だろう?」
「如月さん。この際だ。この場で事実を知ってもらったらいい」
専務がそう言うと、理人が私の肩を抱いた。
「如月に離婚歴があるのは事実だ。だが、そんなことは今時珍しくはないだろう。俺は、彼女のことも彼女の息子のことも愛している」
理人……。
理人の言葉の意味がわからない力登は、彼の腕の中から私に手を伸ばしている。
「本意ではないにせよ、私事で耳汚ししてしまったことは申し訳ないと思っています」
理人が力登の背中に手を当てて支えながら、ゆっくりと腰を折る。
私も続いた。
力登は急に身体が傾いて、理人の首にきゅっとしがみついた。
そして、また元の位置に戻ると、力登が笑った。
「パパ、もっと」
「力登、遊んでるんじゃ――」
「――パパ、もっと!」
力登が理人のネクタイを掴む。
「帰ったらやってやるから」
「すっかりパパですね。室長」
又市さんが微笑む。
「しっちょー!」
彼女の言葉で思い出したように、力登が声を上げた。
「しっちょー、りきのパパなん」
「そう。力登くんはパパが好きなのね」
「うん! パパだぁしゅき。しっちょーはおぅすばんなの。パパ、おかぁりってほぃくえんきたの」
「ふふっ。愛されてますね、室長」
「ちゃうよ! パパ、しっちょーじゃないんよ」
「え?」
「力登。パパは会社では室長だから、いいんだ」
「パパ、しっちょーなん?」
力登にとって『しっちょー』は名前も同然だから、『しっちょー』であり『パパ』であることは理解できないだろう。
「めっちゃ可愛い」
「なに、あれ。室長メロメロじゃん」
「誰よ、婚外子捨てたとか言い出したの」
「仕事ができて子煩悩って嫌みすぎだろ」
そんな囁きの中、黒髪の女性がパチパチと手を叩いた。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」
「出過ぎた真似をしてすみませんでした。失礼します」
女性は深々と頭を下げて踵を返す。
「おめでとーございまーす」
何人かの男性社員がそう言って、帰って行く。
「おめでとうございます。お子さん、可愛いですね!」
女性社員は力登に手を振って行く。
そんな中で、栗山課長が走り出した。
黒髪の女性を追いかけて行ったように見える。
「パパ、かえろー?」
力登が理人の肩に顔を擦り付けている。
保育園帰りに始めての場所に来て、たくさんの大人たちを見ただけで、疲れているだろう。
「りと、もう帰れるか?」
「うん」
「じゃあ、タクシー捕まえて待ってる。その方が力登が寝やすいだろう」
「うん」
「ママは?」
「ママはバッグを持ってくるだけだ」
理人が頭を撫でると、力登が彼の肩に頭を預けて目を閉じた。
「皇丞、見て。こんな風に寝かしつけできるようになって」
梓さんが専務の袖を引っ張る。
専務は困り顔。
「梓ちゃん。知ってるだろうけど、皇丞は器用そうに見えて不器用だから、まずは抱き方からだ。産まれたら、俺がみっちり指導してやるよ」
「うわっ。なに、その上から。感じわるっ!」
「父親としては先輩だからな?」
「はいはい、二人共そこまで! 皇丞、私たちも帰ろう」
梓さんが専務の手を引いてエレベーターに向かう。
「りとも、帰り支度してこいよ」
「うん」
ふと、理人の背後で私たちを見ている女性社員数名が目に入った。
彼女たちは笑顔で、私が見ていても視線が合わないから、彼女たちが見ているのは理人。
「タクシー見てくる」
理人が身体の向きを変えると、女性社員の表情がぱぁっと明るくなった。
結婚しても子持ちになっても、モテるのね……。
浮かれてばかりはいられないな、と思った。