侯爵夫人の復讐
セドルが水の入ったタライを持って駆けつけた。
もう何度目なのか、彼はすっかり慣れてしまっている。
キルアはぬらしたタオルで口の端から頬に塗りたぐられた紅を拭き落とす。
鏡に映る自分の顔を見つめて、汚れた箇所を何度も拭くが、うまく落ちない。
「うーん、結構しっかりついてるわね」
「替えのタオルをお持ちします」
「いいわ。なんだか気持ちが悪いから湯浴みをしようと思うの」
「では使用人を連れてまいりましょう」
「あら、あなたが準備してくれてもいいのよ」
「……ご冗談を」
キルアはくるりと振り返り、背後にいるセドルにゆっくりと近づいた。
「だって私は使用人たちに嫌われているんだもの。毎回湯浴みのときに何か嫌がらせをされるの。湯が冷めていたり、タオルがなかったり、着替えをわざと置いていなかったりね」
「誰がそのようなことを? 俺が始末してきますので教えてください」
真面目な顔でそんなことを言うセドルに、キルアは思わず笑った。
「ごめんなさい。少しいじわるしちゃった。大丈夫よ。ひとりで湯浴みはできるから」
「そうですか」
キルアが湯を準備しに行こうとすると、セドルが声をかけた。
「ここまでされても離縁されないのですか?」
キルアは真顔で黙っている。
「正直、苛立ちを抑えるのが限界です」
普段温厚なセドルがめずらしく怒りの表情を見せている。
キルアは困惑の表情で苦笑する。
「ごめんなさい。あなたの気持ちもわかるけど、もう少しだけ耐えてくれる?」
「……すみません」
「いいわ。それに、ただ耐えているわけではないの」
キルアは棚の引き出しの中から一枚の紙切れを取り出して、セドルに見せる。
セドルは驚いて目を見開いた。
「それは離縁状?」
「そうよ。旦那さまが感情的になって自分のサインをした離縁状を私に叩きつけてきたの。相当酔っていたようだから、私に渡したことも忘れてしまっているわ」
キルアは離縁状を見つめてふふっと笑う。
「この紙があるだけで安心よね」
「いつでも離縁できますね」
「ええ。でも、今ではないわ。わかるでしょう?」
「……はい」
セドルは複雑な表情でうなずく。
キルアは離縁状を丁寧に折りたたんで引き出しにしまう。
「ただで離縁なんてしてやらないわよ」