先生と私

5

 
 山村先生は少し遅れてやってきた。
 息を切らして頬を赤く染めて。
「ごめん。他の生徒を巻くのに時間がかかって」
「いえ、大丈夫です」
「改めて、中川、卒業おめでとう」
 山村先生は心底嬉しそうに目を細めて言った。
「ありがとうございます」
「どれだけこの日を待ったか」
「え?」
 山村先生の目には私だけが映っていた。
 胸がざわざわする。
「これで誰にも憚りなく彼氏彼女って言えるな」
 私は目を大きく見張った。
 仲良い愛莉でさえ最後まで私の気持ちを誤解したままだった。村田さんも、他の先生も、みんなみんな誤解して。そんな中、山村先生本人が誤解しないなんてことはあるんだろうか。
 ううん。本当は分かっていた。山村先生が私に好意を抱いていると。私はそれを分かっていて、うまくあしらいながら利用していたのだ。自分が一番ずるいこと、本当は分かっている。
「中川が大学で他の男に目移りなんかしたら困るから、今言わせてもらうよ」
「え……?」
 山村先生は薄いピンクのリボンのかかった黒い小箱を私の前に差し出した。
「開けてごらん」
 私は言葉なくその小箱のリボンを外して、蓋を開ける。手が震えた。プラチナだろうリングの中央に光るのはどこまでも透明なダイアモンド。
 ああ……!
「俺の給料ではそのくらいのしか買えなくてごめんな。ずっと一緒に古文の話をしよう、中川美彩さん。俺と結婚してくれるね?」
 山村先生の目に迷いはなく、疑いもなく、ただ私を信じているのが伝わってきた。
 こんな状況で断ることができる人なんているのだろうか。私はあの日の放課後を思い出した。明らかに私が悪い。
 目の前が暗くなっていく。私はそれを見ないように目を閉じた。
「はい。先生」
 感情のない声が口から漏れた。
「良かった! 実は結婚届も書いてあるんだ。でも、卒業してすぐではよくないかな。式は何ヶ月後にしよう? 美彩が学生のうちはちゃんと避妊するから心配しないで大丈夫だよ」
 いつの間にか私は下の名前で呼ばれていて、話が勝手に進んでいく。山村先生はかっこいいから女慣れしているのかと思っていたけれど、こんなに純粋な人だったんだ。山村先生の喜びに溢れる声が遠く聞こえる。
 私、こんな形で結婚することになったんだなあ……。本当にいいのかな。
「美彩」
 山村先生の熱を帯びた声が急に近くから聞こえて私は目を開けた。山村先生の顔がすぐそこにあった。
 先生は私の顎に手をかけ、私の唇を塞いだ。
 ああ、私のファーストキスが。
 好きな人と、したかったなあ……。
 山村先生は何度も何度もキスをした。私は息の仕方が分からず、口を少し開けた。
 山村先生の熱い舌《きもち》が入ってくる。
 ああ。心が絶望に染まっていく。
 私はそれを受け入れるしかなかった。
 涙は出なかった。



               了
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