傾国の落日~後宮のアザミは復讐の棘を孕む
「薊夫人をお連れいたしました」
 導かれたのは、それほど広くない塼敷きの(いま)であった。
 部屋の壁沿いには燭台が並び、内部はぼんやりと明るい。正面の大きな長椅子に一人の大柄な人物が座っていて、その陰が大きく揺れた。
「ご苦労。さがってよし」
 やや掠れた男の声がかかり、徐公公が紫紅に小声で耳打ちした。
「主上の御前です。御無礼のないように」
 そうして、徐公公は深く頭を下げたまま、後ろ向きに部屋を下がっていく。
 紫紅はそれを見送ってから、気づいたように(タイル)敷きの床に膝をつき、拱手して頭を下げた。
平身(なおれ)。堅苦しい礼は不要じゃ。こちらに参れ」
 紫紅が頭を下げたまま、立ち上がって奥に近づいていく。
「もっと近う」
 さらに言われ、長椅子に座る男の足元が見える場所まで進み、そこで膝をついた。
「もっとじゃ。それではそなたの顔が見えぬ」
 威圧感と恐怖で、紫紅の背中を冷たい汗が伝う。紫紅は意を決して、膝でさらににじり寄った。
 と、大きな手が不意に伸び、紫紅の顎を掴み、グイッと上を向かせる。
 目の前には黄色い竜の刺繍の入った豪華な円領袍を着た、壮年の男。――ビックリするほど伯祥に似ていた。
 先日の宴の時、紫紅は遠慮して竜顔を拝さないよう、視線を落としていたから、皇帝の顔をはっきり見るのはこれが初めてだった。
 顎を掴まれてじっと見つめられる。心臓がドクンドクンと音を立て、背中を冷たい汗が流れていく。
「あ……」
「やはり、美しいな。……これほど美しいと知っていれば、みすみす伯祥の嫁になどせぬものを」
 冷たい声が胸に刺さり、紫紅は息を呑む。
「は、伯祥さまは……」
「あれのことなど気にせずともよい」
 そう言われ、紫紅はハッとして皇帝の手を振りきるように首を振った。
「何かの間違いです! 伯祥様が謀反なんて! あの人をお返しくださいませ!」
 皇帝の切れ長の目がすっと眇められ、薄く形の良い唇に酷薄な笑みが浮かぶ。
「確かな証拠があると聞いた。……謀反を唆す者からの手紙を受け取っていた」
 紫紅は伯祥が眉間にしわを寄せて読んでいた書簡を思い出す。
「あれは! あちらから送られてきたもので! 伯祥様は意味がわからないと……!」
「そのような言い訳が利くと思うてか?……まあよい、どのみち、そなたは朕のものになるのだ」
 紫紅が黒い瞳を大きく見開いた。
「そんな……」
 紫紅がぶんぶんと首を振る。
「わたしは伯祥様の妻です! 陛下は恐れ多くも伯祥様のお父君でございます。どうか人の道に外れるようなことは――」
「ほう、朕を拒むか」
「陛下、どうか、それだけは――」
 皇帝は切れ長の目を眇め、値踏みするように紫紅のつくづくを見た。
「……なるほど、そなた、夫に気を兼ねておるのか?」
「どうか、お許しください……」
 涙で潤んだ目で必死に懇願する紫紅の様子に皇帝が笑みを深くする。
「そうじゃな……そなたが朕のものになるならば、あれを釈放してやってもよい」
 その言葉に、紫紅がハッとして皇帝をじっと見た。
「もし、わたしがあくまで拒んだら……」
「その場合は、あれは助からぬ。それに、そなたの父も――」
「そんな……」
 驚愕のあまり硬直する紫紅の耳元で、皇帝が唆すように告げる。
「もし、そなたが朕の意志に叶えば、あれは釈放し、さらに広い領地を与えてやってもよい。そなたの父も、皇帝の寵姫の父親として一層の栄達を約束しよう。……どうじゃ?」
 ドクン、ドクンと紫紅の心臓が跳ねる。
「ですが……」
 皇帝の大きな手が紫紅の細い頸にかかり、ぐっと力が籠められる。
「そなたを殺すなど、朕にとっては児戯にも等しい。同様に、そなたの家族また……どうする? 朕を拒み、家族ともども地獄に墜ちるかあるいは――」
 ギリギリと首を絞められ、紫紅は呼吸の出来ぬ苦しさで顔を歪める。同時に、あることを思い出した。
 ――わたし、お腹に、子供が……
 もしここで皇帝を拒めば、紫紅の命はなく、当然、胎の子も死ぬ。
 そればかりか、伯祥の謀叛の疑いは晴れず、父や家族にまで累が及ぶ――
 拒否することなど、最初から許されていないのだ。
「陛……下……おゆるしを……」
「朕のものになるか?」
 至近距離から覗き込む男には、冷酷な笑みが浮かんでいた。悔しさと屈辱、そして自らの弱さに我知らず涙が溢れ、目尻から流れ落ちた。
 必死に頷けば、ふっと手が緩められ、そのまま塼の上に崩れ落ちる。ケホケホと咽せている紫紅に、蔑むような言葉が降ってきた。
「ふふふ……最初から素直に頷けばよいものを。だが、その強情なところも嫌いではないぞ」
 皇帝はゆったりと玉座に座り直し、手を叩いて人を呼んだ。
「これ、誰ぞ――」
 すぐそばに控えていたのだろう、即座に徐公公が入ってきた。
「湯を賜い、閨の支度をさせるように。支度ができれば呼べ」
「はっ……すぐにも」
 徐公公が紫紅の腕を取り、ぐいっと引っ張り上げる。紫紅が我に返って皇帝を見た。
「陛下、わたしが意に叶いましたらなば、伯祥様は必ず釈放してくださると、約束してくださいませ!」
 皇帝はうっとうしそうに手を振り、言った。
「ああ、今のうちに勅命を出しておいてやる」
 皇帝からの約束を取り付け、紫紅は幽鬼のような足取りで、徐公公に連れられて浴室向かった。
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