桜ふたたび 後編

3、上手なやきもちの焼き方

おせち料理を詰める手を止めて、澪は磨き上げた窓硝子の向こうに広がる夕空に目を細めた。

今年もあと数時間。ほんとうに目まぐるしくあっという間の一年だった。

カプリの初日の出にはじまって、ジェイとの別れ、枕崎での生活、ニューヨークでの再会、プロポーズ、東京への引っ越、流産、そしてジェイの婚約。
二十六年生きてきて、こんなに波瀾の多い年はなかった。

パリは大晦日の朝を迎えた頃。ジェイはもう、ローマ入りしているのだろうか。今年はきっと婚約者と一緒だ。

──大財閥のご令嬢か……。

彼の母親が選んだほどのお嬢様なら、パーティーに気後れしたり、辱めを受けたりすることもない。百人に訊けば百人が、ジェイと彼女の結婚を祝福するに決まっている。
それなのにジェイだけが、抗っている。

ジェイはわかっていたのだ。いずれアルフレックス家のために結婚する日が来ることを。
だから澪との結婚を急いだ。カソリックにとって、教会で神の祝福を受けた婚姻は不可侵だから。
子どもを早く欲しがったのも、そのためだろう。
それなのに、澪がぐずぐずしたために遅れをとってしまった。

──たとえどんな結果になっても、わたしはここで待っているだけ。

そう言い聞かせた自分を、澪は嘲笑った。
きれい事だ。本当はびくびくしている。もし、ジェイが断りきれずに結婚してしまったら、やはり別れなくてはならないだろうか。それよりも、若く正統な婚約者に男の心が揺らぎ、そのカラダに触れてしまったらと思うと、気持ちが波立って堪らない。

人間は弱い。彼との絆は誰よりも強い、こんなことで動じたりしないと信じているのに、離れていると不安になる。逢えない心細さが勝手に妄想を膨らませ、疑心暗鬼で千々に乱れる。

澪は、掃除機を取り出すと一心不乱に腕を動かし始めた。
こんなことを考えていたら、滅入るばかりで切りがない。負のイメージは新たな負のイメージを生み、ますます自分が惨めになるだけ。
愛するというのは残酷だ。裸の自分に向き合わされて、知らなかった感情まで思い知らされる。

掃除機をフルパワーに切り替える。騒音が空々しく部屋に鳴り響いた。

ようやく一息ついた頃には、いつの間にか冬の陽が落ちて、部屋は夕間暮れの杳とした薄闇に包まれていた。

電気を点けようとリモコンに手を伸ばしたとき、背後のドアがカチャリと音をたてた。
振り返った澪は、悲鳴も出せないほど恐懼して、もんどり打って壁に倒れかかった。

そこには髭面に黒サングラスの男が立っていた。
< 153 / 271 >

この作品をシェア

pagetop