桜ふたたび 後編
【モーリスだ……モーリスしかない】

ミロシュビッチは誰にともなく呟いた。まるで呪文のように、かすれた声で。

〈富も地位も手に入れた。しかし、あなたには足りないものがある。それは──〝国〞という権威です〉

エリカ・カイユに招かれたパーティーで、居合わせた唐沢から耳打ちされた言葉。
あれは、シェイク・アブドラが女神のようなクリスティーナ・ベッティを従え、人々の恭敬のなか威風堂々と現れたときだった──。


❀ ❀ ❀


【砂漠のオアシスのプリンスですね】

唐沢が皮肉混じりに呟いた。

【わしはツンドラの囚人か? 奴とわしとどこが違うというのだ。奴等の財産も、元はといえば簒奪や搾取から得たものだ。奴は先祖から譲り受け、わしは自らの手で掴み取った】

唐沢は少し驚いた表情を浮かべ、感服したようにうなづいた。

【何も違いはありません。古来から他者を呑み込み奪うことで、人類は富と幸福を手にしてきた。
しかし、あなたと彼には、唯一にして最大の違いがあるのです】

【なんだ? それは】

【なる程、あなたは富も地位も手に入れた。しかし、彼にあってあなたに足りないものがある。それは──】

唐沢は答えを続ける前に、わざとらしく眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

【〝国〞という権威です】

ミロシュビッチはせせら笑った。彼が知事を務めるまちは、唐沢が住む米粒ほどの国よりも広大だ。

【名ばかりの共和国など、植民地と同じです。自主権は認められてもクレムリンは存在する。あなたほどの方が、なぜ旧態依然とした国にしがみついているのです?】

唐沢の声は、悪魔の囁きのようにミロシュビッチの感情を揺さぶった。

【ヤクートの妻の息子に政権を譲って、チェチェンのように民族独立を訴えますか? それとも生命の危険を承知の上で、本気で大統領選に立候補するつもりですか? それよりなぜ、ベレゾフスキーやグシンスキーのように新天地を他に求めないのです?】

ミロシュビッチは、頭部を強打されたようだった。

【……国など、そこらに転がっているものではない】

力のない声。
唐沢はミーアキャットのように周囲を警戒しながら、声を潜めた。
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