桜ふたたび 後編

2、霧のセーヌ

その頃、バハルにいるはずのジェイは、パリにいた。

20区のアパルトマンホテルに、住宅兼オフィスを構え、華僑系の若き貿易商との触れ込みだ。
黒いカラーコンタクトに細縁の眼鏡、茶髪にゆるくパーマをかけ、香港ブランドのカジュアルなシャツを羽織ったジェイの姿は、パリの多民族社会に自然と溶け込んでいた。

三ヶ月前からバハルで〝ジェイ〞と信じられている男は、ニコラス・マクシミリオンだ。
金髪をストレートの黒髪に、口髭顎髭、サングラスを掛け、さらにリンを伴っていれば、誰も偽物とは疑わない。
元アメリカ空軍特殊部隊AFSOCで、当該国への潜入を専門としていたニコにとって、対象者のコピーは朝飯前。
長じて、無意識に人の癖を真似る悪癖があって、ウィルから再三注意を受けている。

このすり替えを知っているのは、ジェイの側近の他に、シェイク・アブドラだけだった。


❀ ❀ ❀


セーヌ川の水が温んだある日の晩、ジェイの姿はルーブル美術館近くのレストランにあった。

バハルからわざわざニコを呼び寄せ、空港で入れ替わるという荒技を披露してまで臨んだのは、フィリップ・ド・デュバルの誕生祝いの席だった。

[そういうことで、よろしいわね?]

業を煮やしたように、マティーはナプキンで口端を軽く押さえ、他人事に手をこまねいている対面の息子に念押しした。

[結婚式は9月4日、新婦が洗礼を受けたイル・ド・フランスの教会で。その後、バビルソンで披露宴。新居はパリ──でしたね]

ジェイは、アントレの子羊に最後のナイフを入れながら、これまで議論されてきた要点を復唱した。
すでに両家間で合意がなされていただろうから、まったくの出来レースに長々と付き合わされてしまった。

[時間をとらせて申し訳なかったが、なかなか話が進展せずに、周りもヤキモキしていてね]

フィリップがワイングラスを手に言い訳がましく笑う。

表面上の主役がリクエストしたワインは、 ドメーヌ・ルロワのミュジニ・グラン・クリュ。完璧な畑から収穫された葡萄は、過保護に育てられ、決して清澄されることも濾過されることもなく、稀少な最上級ワインへと造り上げられる。ヴィンテージが娘の生まれ年であることも、意味深長だ。

[ご心配はごもっともです]

マティーが重々しく頷いた。

[でも、これでようやく安心ですわ。すぐにウエディングドレスを仕立てさせましょう。この子にはオートクチュールのレースが似合いますの。そう、新居の方も私にお任せください。お忙しいお手を煩わしはいたしませんわ]

マリアンヌは、夢見心地に何もない空間を見上げている。はなからひとり浮きだって、会話に前のめりになっていた。
おそらくドレスは発注済み、新居も自宅近くに目星をつけているのだろう。結婚しても娘離れしそうにない。
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