桜ふたたび 後編

リチャード・ルネ。

彼とはじめて会ったのは、ジェイの婚約者として参加したクリスマスパーティーだった。
大人たちの会話に弾き出され心細くしていたとき、ずっと寄り添ってくれた。言葉を交わすことはなかったけれど、とてもあたたかい人だと感じた。

翌日、ジェイと待ち合わせたレストランの前で、ドーベルマンに吠えられて恐ろしい思いをしていたところを、偶然彼に助けられた。
それがきっかけで、密かにデートを重ねるようになった。残り一週間になった彼のパリ滞在が、少しでも良い思い出になりますようにと。

初めて行ったオーガニックマーケットで、〈かわいい恋人たちだ〉とたくさんおまけしてもらった。
パン屋のテラス席では、少女が一輪の赤いチューリップをプレゼントしてくれた。
古い映画館での突然の停電に、震える体を抱きしめてくれた。
凱旋門でカウントダウンの花火を見て、シェルブール行きのRERに乗り、誰もいない海辺で将来の夢を語り合った。
何もかもがはじめてで、すべてが楽しかった。

木訥で優しい彼は、理想を追い求めて現実を嘆き、おとなになることを拒んでいるような繊細な人。
こちらが抱きしめて守ってあげなければ、壊れてしまう。──それは、生まれて初めての感情だった。

あの夜、リチャードは震えながらキスをした。何度も、何度もたどたどしく、目に涙まで溜めて、真摯に愛の言葉を繰り返した。
サーラも同じ想いだと知った彼は、祖国には帰らなかった。

はじめて結ばれたとき、思いも寄らない彼の激しさ逞しさに、愛されていることを実感した。
彼の部屋の窓から見えるセーヌ川の上に昇った青い月に、「ずっと一緒にいよう」と、ふたり誓った……。

サーラはキッと顔を上げ、運転手に向かって告げた。

[Cour st-Emirionへ]

運転手が驚いた顔でバックミラーを覗き込んだ。

[Cour st-Emirion ですか?]

運転手は念を押すように復唱した。少女がしっかりと頷くのを確認して、進路を西へと向ける。

ルーブルの明かりが遠ざかる。
サーラはもう迷わなかった。愛する男のもとへ──彼女は、人生で初めて、自分の意志で選択をしたのだ。
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