桜ふたたび 後編
父は、痺れた手をもう一方の手で抑え、低く言った。
[……今の言葉は、聞かなかったことにする。お前も、二度と口にするでない]
背を向ける父に、娘は妙に冷め切った表情で口の隅を歪め、その背に投げるように放った。
[無理ですわ、お父様。あの方は、すべてご存じなのです]
父の顔から、血の気が引いた。
取り返しのつかない過ちを、ジェイは見て見ぬ振りをしているというのか。
策略家の彼の噂は充分認知している。一体、何を企んでいるのか。
──FMTか。
FMTは自国の通信キャリアだ。次世代データ通信構想に後れをとり、現在、ロイズの敵対的買収に脅かされていた。
ドイツの自動車メーカーがホワイトナイトとして名乗りを上げているが、その背後にSAMが関与していることは掴んでいる。
SAMは、ムスリムの王子が持つ投資会社だ。
野蛮で人権を軽んじる異教徒の資金など、敬虔なカソリックであり貴族の血脈として受け入れ難い。
そこで、国際的ITソーサ・PMSに影響力をもつジェイを、娘との婚姻を餌に懐柔し利用することにした。
だが、彼はなかなか重い腰を上げようとしなかった。
──まさか、SAMと結託して、これを理由にふっかけるつもりか?
下手をすれば呑み込まれる。
〝魔術師〞などと世間に持て囃されていても、しょせんは若造と……みくびり過ぎたか。
氷の瞳の奥に隠された、底知れぬ不気味さ。
デュバル家存亡の危機さえ感じて、フィリップは胴震いした。
サーラは疲れたように長息すると、ソファに腰を落とした。
短く整えた爪先を見つめながら、つぶやくように低く言う。
[そう……あの方は、すべてご存じなのです……。なのに、私を責めることをなさらなかった。ただ……赦しなら、あなたの良心と生まれてくる子に乞いなさいと──]
娘は涙を溜めた目を上げ、父に向けた。
[リチャードは、すべてを捨てて、私と子どものために生涯尽くすと、誓ってくださいました。私たちは心から愛しあっています。
それでも、お父様……これから先も、デュバル家の名のために、神を偽り、愛のない人生を歩めと仰いますか?]
すみれ色の瞳から、つっと涙が落ちた。
父は虚ろに遠い目をしたまま、無言で踵を返した。
──それから五日後、軟禁されていたサーラの姿は、再び両親の前から消えた。