桜ふたたび 後編
「何してるの‼」
鋭い叫び声が、女の手を引き剥がした。
崩れるように地べたに倒れた澪は、ゴホゴホと咳き上げた。
「み、澪さん、しっかりして!」
肩を抱いて呼びかける声に、澪は朦朧としながら顔を上げた。
「……キョウ・コ・さん?」
「ケガは? 痛いところは?」
自分の衣服の乱れも気にかけず、恭子は必死の形相で、澪の体を上から下まで忙しく視線を這わせている。
澪は両手で喉を押さえて、大きく深呼吸をした。
パンプスが脱げて、足の裏を少し擦りむいただけ。右手の爪に付いた血は、相手の腕を引き剥がそうとして引っ掻いたものだろう。
「いえ、大丈夫です」
「あ……あ、よかった」
恭子はへなへなと腰を抜かした。
「助かりました。ほんとうに……」
「け、警察……」
自身の声に命じられたように、恭子はバッグからスマートフォンを取り出す。
その手がわなわな震えている。見ると、顔面蒼白だった。
澪はそっと、その手を押し戻し、かぶりを振った。
恭子は察したように一度目を伏せたが、それでも納得がいかないと、奥歯を噛みしめている。
──これは、警告。
相手も、命まで取ろうとは考えていないだろう。
ここで大ごとにすれば、ジェイに迷惑がかかる。澪が通報しないと踏んでの手口なのだ。
それに、ようやく本命をターゲットにしてくれて、かえって胸の支えが下りた気分だ。これで、周囲に不当な攻撃をされる心配はない。
「恭子さん、なぜここに?」
柏木の自宅は高井戸だと、考え至るほど、澪は頭が回っていた。
人はギリギリの危険に遭うと、逆に冷静になるのかもしれない。
「あ?」と、顔を上げた恭子は、澪の瞳に気が緩んだのか「は……あ」と息を吐いて、首を折った。
胸に手を当て、乱れた呼吸を整える。そしてようやく、「うん」と自分に頷いた。
「実は……柏木が、ブラジルに発つ前、澪さんのことをとても心配していたんです。アルフレックスさんがお戻りになるまでは、十分用心してくれって。だから、ときどき様子を拝見させていただいてました。すみません、ストーカーみたいな真似をして。
でも……まさか、こんなことが、現実に起きるなんて……」
恐怖が蘇ったのか、危険が去って安堵したのか、恭子の目尻にうっすらと涙が滲んでいた。
澪は、胸の中がぽおっと温まるのを感じた。
恐ろしい体験をしたけれど、ジェイと紡いできた糸が、こうして守ってくれている。──そう思うと、ありがたくて、嬉しくて。
人間関係がこわくて、暗闇に膝を抱えていた澪に、ジェイが手を差し伸べてくれた。
何度も立ち止まり、蹲りそうになる澪を、彼が引っ張ってくれた。
今は遠く離れているけれど、その手の感覚は、確かに澪のなかに刻み込まれている。
澪は膝を払って立ち上がると、恭子に手を差し伸べた。
──大丈夫。
ジェイがくれる愛が、わたしを強くして、わたし自身を支えている。
わたしは、もう、ひとりじゃない。