桜ふたたび 後編
ウィルはテーブルに着いた片手に体重を乗せて上体を屈め、男の耳元でゆっくりと問うた。
『君は指示されたとおり、十二時にアルフレックス邸へ花嫁を迎えに行った。アテンダントにエスコートされた美しい花嫁を、晴々しい気持ちで車の前で待った。そうだな?』
『そう……。階段を降りてくる彼女は、プリンセスのようで……』
声がうっとりと濁る。
『君は花嫁を車に乗せ、時間通りに出発した。屋敷を出て五分後、君は車を停車させた。なぜだろう?』
男は催眠状態のように、視線を宙に彷徨わせ、記憶を辿っている。
『……突然、パーティションが叩かれて……、スピーカーから、車を止めるようにと……』
『命じたのは、花嫁か?』
『……はい……それで、車を路肩に寄せて……停車しました。モニターを見ると、花嫁が……車を降りるところで……』
『自分から降りたのか?』
『はい……とても、慌てた様子で……。なかなか戻らないので、様子を見に行こうとドアを開けたら……女が立っていて……』
男は首に手をやった。
左耳の下に、火傷のような赤い痕が二箇所あった。
ウィルは上体を戻して男を見下ろすと、今度は重く厳しい口調で言った。
『どんな女だ?』
男はこめかみを押さえ、苦しげに唸った。
『赤い……赤い服に、赤い帽子……胸に……大きな黒い花が……』
『顔の特徴は?』
『顔は……まるっきり……思い出せません……』
一瞬、室内の空気がぴたりと凍る。
ウィルとジェイが視線を交わした。
──赤い服に黒い花。強烈な印象に、身体的特徴が記憶に残らない。
心理的効果も計算のうちなら、犯人はかなり高い知性を有している。
『スタンガンを当てられて、麻酔薬を打たれている』
ウィルは断言した。
『車内にクロロホルムのような臭気はなかった。となると、チオペンタールやレミフェンタニルなどの麻酔剤を、注射された可能性が高い』
その分析が正しければ、一歩間違えれば死に至っていた。素人が取り扱える代物ではない。
殺人も厭わぬ人物に、澪が捕えられている。怒りより先に、恐怖がジェイの内側を這い上がった。
しかし、なぜ澪は車を止めさせたのか。
なぜ自ら車を降りたのか。
思い当たる節はある。
澪は過ぎるほど慎重だが、突発的な出来事には迂闊だ。おそらく、なにか予期せぬことがあったのだろう。
『……それにしても、遅いな』
ウィルの呟きに、ジェイも静かに頷いた。
金銭目当てならば、身代金要求があるはずだ。澪の命が危険にさらされぬよう、警察への通報を見送っているのに、犯人は何を手間取っているのだろう。
──それとも、目的は他にあるのか?
『レオを呼ぶ』
ジェイは決然と言った。
公私混同と言われようが、信じられるのは彼らしかいない。
『君はニコに状況を説明しておいてくれ』