桜ふたたび 後編
あの日──
ジェイが乗ったプライベートジェットが、エンジントラブルで不時着したとの報せを受け、澪は貨物船からヘリで飛行場へ、待機していたプライベートジェットに乗り換えて、リバプールへ向かった──はずだった。
冷たい雨に煙る夜の飛行場に降り立ったとき、澪はようやく不審を覚えた。
イングランドはシェンゲン圏ではない。パスポートコントロールも受けずに入国できないはずだ。
それに、この香りには覚えがある。
──泉岳寺で襲われたときの……。
猜疑の目を向けたとき、女はすっと首を伸ばし、残忍な表情で嗤った。
すべては遅過ぎた。
動転して、J&Aの社員だという女の身元を確認しなかった。ジェイから口を酸っぱくして注意されていたのに。
「逃げなきゃ」と、踵を返したその瞬間、背後から羽交い締めにされた。
間に合わなかった。あと一秒、早ければ──。
頬に当てられた冷たい感触。じわじわと鋭い切っ先が皮膚の上をなぞる。
澪は口を閉じたまま、目を剥いて鼻の奥で悲鳴を上げた。たらりと生暖かいものが首筋を伝った。
恐怖で身動きできないまま薬を打たれ、目が覚めたときには、ここに閉じこめられていた。
女は〝キアラ〞と名乗った。
『あなたにはしばらくここでおとなしくしてもらうわ。安心して、まだ殺したりしないから』
拘束具でベッドに縛り付けられた手首に、澪はぞっと寒気だった。
このひとは本気だ。グリーンアイの奥には、生命を虚しく思う狂気がある。
『これは、あの男が今まで多くの人を苦しめてきたことへの報いなのよ。
結婚式に花嫁を盗まれて、きれいな顔に傷をつけられて、今頃どんな吠え面をかいているかと思うと、ゾクゾクするわ。
でも、最愛の者を失う苦しみはこんなもんじゃない。もっと、もっと苦しめて、地獄の底をのた打ち回させてやる』
呪詛のように言うキアラの顔は、苦しげに歪んでいた。
強い怨讐が、美しいブロンドを赤く染めたのだと思うほど、ジェイがキアラの心に負わせた傷は深い。何がふたりの間にあったのか、その事情を知ったところで、澪には何もできない。