桜ふたたび 後編

3、つり橋のふたり

夏の暑さを残したまま、秋は忍び足でやって来た。

澪はルーフバルコニーの手すりに両腕を乗せて、ぼんやりと夕焼け空を眺めていた。
黄金に縁取られた細い彩雲がキラキラと輝いては、茜色の空に溶け込むように消えてゆく。鳥の群が形を変えながら東へ小さくなっていった。

──もう飛行機は飛んだかしら?

ジェイは慌ただしくニューヨークへ帰国した。何事もなかったかのように澪を抱いて、疾風のように飛び立っていった。

──彼と結婚できるんだ。

澪はほおっと息を吐いた。

嘘だった。この六年間、苛み続けてきた罪は、紗子の創作だった。
不倫も堕胎も過去の罪が消えるわけではないけれど、もう人並みの幸せを望むことを妨げるものはない。ジェイの願いどおり、結婚して可愛い子どもを何人でも産んであげられる。
母から憎まれるようと、見捨てられようと……。

──大丈夫、わたしにはジェイがいる。

親の愛は無償だと、ひとは盲信している。だから子は愛情を当たり前のように受けて、当たり前に返せる。
澪も、自分の子どもを愛さない親はいないと、ひたすら彼らの意に染むよう生きてきたけれど、親も生身の人間、どうしても愛せない存在はある。

もう、得られないもののために、後ろを振り向くのはよそう。こんなにも深い愛情を、ジェイから与えてもらっているのだから。

禍根は瓦解した。因縁の鎖は断ち切られた。これからは彼とふたりで新しい絆を育んでゆく。

それなのに、この漠然とした不安は何だろう。胸のなかに呪札のように貼り付いた罪悪感が、どうしても剥がれない。

あのとき、あの優しい柚木が紗子に向けた憎悪の視線が、澪には忘れられない。
澪との再会は、柚木にとって辛かったのだと思う。彼は、墓場まで苦しい秘密を抱えていく覚悟だったのだ。そうしなければ、殺された魂が浮かばれないから。何よりも、殺した澪が悲惨だから。

〈人様の家庭を滅茶苦茶にしておいて、自分だけ幸せになるつもり?〉

紗子の声が胸に刺さった。
彼女が嘘をついたのは、澪のせいだ。澪さえいなければ、彼女は嘘をつかずに済んだ。

〈神様は赦さないわよ〉

澪は胸を押さえた。紗子の怨念に充ちた目が、母の目と重なって、どこまでも追いかけてくるような気がした。
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