桜ふたたび 後編

6、魔王の歌

いつもは森閑とした廊下に、怒声が響いている。
不安げにドアへ向かうEA(エグゼクティブアシスタント)を横目で見やり、エルは人差し指で鼻の横を掻いた。

『エル!』

突然ドアが開かれ、ドアノブに手をかけかけたEAの顔面を直撃した。鼻を押さえて蹲る彼の横で、ルナはまだ警備員と格闘を続けている。

『放しなさい!』

ルナの肘が閃き、警備員の顎に見事なエルボースマッシュが決まった。直撃を食らった男は、よろめいて壁にぶつかりそのまま沈んだ。

元々が悍馬だ。そのうえ、誘拐予防のため、幼い頃から一通りの護身術を身につけている。
さらに、無政府地帯で常に危険と隣り合わせの日々を送っているのだから、そこらの男よりはよほど強い。

エルは仕方なく、妹に取り縋る警備員たちを邪魔くさそうに手で払った。
犠牲者の心配よりも、部屋を飾るコレクションに傷でもつけられたら堪らない。

ルナは、破れたシャツも、振り乱した髪も整えることなく、ツカツカとデスクへと詰め寄ってくる。

『今、忙しいんだ。後にしてくれ』

ルナは机にパンと手をつくと、兄の鼻面に向かって大きく体を乗り出した。

『時間はとらせないわ』

エルは、金無垢の万年筆を走らせサインを終えると、ゆっくりと顔を上げた。

壁際で呆然としていたEAが、ハンカチで鼻血を押さえながら恐る恐る近づいてくる。獣舎のライオンを避けるようにルナを警戒しながら書類を受け取ると、脱兎のごとく退散した。

『あれはクビだな』と呟き、エルは落ち着き払った声で言った。

『用件はわかっている』

『やっぱりグルなのね』

『グルとは穏やかじゃないな。これは、AXの社運をかけたプロジェクトだ』

『そんなことに家族の人生を利用しないで!』

『お前一人の人生が、AXに携わる二十万の社員の人生より、高尚だとでも言うのか? 傲慢だな』

エルは、猫が獲物を弄ぶように言う。

『お前が今まで、何不自由なく生きてこられたのは、彼らの努力のおかげだ。その彼らの生活と未来を守るために、自己犠牲を払うことは、経営者一族に生まれた者の宿命だろう? 違うか?』

ルナは唇を噛んだ。悔しいが反論できない。頭に血が上っていて、いつもの鋭利さを欠いていた。
舌戦でエルに押し込まれるなど、あり得ない屈辱。
だが、感情的に言葉を投げつけても、幼稚と揚げ足を取られるだけだ。

エルはゆっくりと前屈みになり、机の上で指を組んだ。
彼がオーバーアクションでもったいぶるときは、碌なことを考えていない。
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