桜ふたたび 後編
ルナには祖父の記憶がないが、〈終戦後のニューヨークで事業を成功させた傑物〉という話は、耳にしている。
暴君と畏れられた彼だったが、祖国と妻への愛情はとても強かったと聞く。
故郷のジェノヴァに屋敷を購入したのも、自身の成功と引き換えに精神を病んでしまった妻の療養のため、そして、子どもたちの教育のためだった。
祖母が亡くなると、フェデーが屋敷の主となった。
しかし、息子を片腕に欲した祖父は、かなり悪どい手を使ってマティーを嫁に迎え、フェデーをニューヨークへ呼び寄せた。
必然的に、屋敷の主人はマティーとなった。
パリの元伯爵家の娘が、困窮していたとはいえ、イタリアの成金に〝買われる〞ように嫁がされ、そのまま〝放置〞。
それでも、愛息と平穏に暮らしていたのに、藪から棒に夫の隠れ子をつれ帰ってこられては、マティーに遺恨があっても不思議ではない。
〝跡取りの条件〞は遺言にも残されていて、その禁を破ってエルがフォレストヒルズに渡ったときは、AXが最大の経営危機に陥ったというのだから、呪いのようなものだ。
結局、フェデーも祖父に倣い、息子の政略結婚でエヴァを女主人に据え、難を逃れようとした。
だが、業績不振に歯止めはかからなかった。
そんなとき救世主となったのが、ジェイだ。
〝祖父がもっとも愛した〞と言われ、祖父と同じ名を持つ彼の登場で、〝呪い〞が解けたと信じる輩もいる。
けれど、AXを甦らせたのは、神通力でも奇跡でもなく、ジェイの計り知れない努力だ。
それから十年、彼はAXを支え続けている。
それを、微塵の労いもなく、当然の罪滅ぼしだと、エルは言うのか。
『 There is safety in silence. (雉も鳴かねば撃たれまい)。よりによって、あの女そっくりのジャップとはな』
エルの言葉に、ルナはその場に凍りついた。
──日本人……。
自分が伊織に惹かれたのも、ジェイが澪に惹かれるのも、父親の遺伝だったのか──そんな、根拠もないことを考えるほど、ルナは狼狽していた。
その動揺を煽るかのように、エルは凄む。
『ルナ、ジェイに肩入れするのはよせ。お前の大切な組織が、せっかくのスポンサーを失うことになるぞ』
そして、意味深な含み笑いを浮かべた。
『それに、仲間たちも、いつ不幸に見舞われるかわからない。──お前の恋人のように、な』
『何ですって⁈』
エルに烈しい憎悪の視線を向けたルナは、勝ち誇った薄笑いに、愕然とした。
マティーは、恐ろしくプライドが高い。一度受けた屈辱は、屍になるまで忘れないだろう。
彼女なら、MSFに圧力をかけ、伊織を危険地域に転属させることくらい、朝飯前だ。
昨年のナターレに、ジェノヴァにわざわざ会いに来たのは、伊織の生死不明を知っていたからか。
──完敗だわ、ジェイ。
ルナの脳裏に、容赦なく谷底に突き落とされるふたりの姿が浮かんだ。
暗く凍てついた深淵へと沈んでゆく──澪とジェイの、あまりに残酷な運命の影だった。