夫婦ごっこ
 義昭の呼びかけに奈央は慌てて意識を戻して、義昭から距離を取った。でも、少し速まった鼓動はそのままで元に戻らない。

 先程まで少しも気にしていなかったのに、急に義昭の存在が気になって仕方なくなった。義昭が横にいると思うだけで胸が心地よく締め付けられる。そわそわとして落ち着かない。その感覚は奈央がかつて経験したものと同じだった。

 昔はその心地いい感覚だけがあった。叶わないとわかって苦しさのほうが大きくなったけれど、恋をしてすぐの頃は胸が苦しくなるのになぜかそれが心地よかったのを覚えている。今の奈央も同じだ。奈央が今味わっているその感覚は恋の始まりに感じるそれだった。


 修平への想いが消えてしまったのかというとそうではない気がする。でも、今義昭を意識してしまっているのも事実だ。絶対に心変わりすることなんてあり得ないと思っていたのにその自信が急になくなってしまった。

 うっかり近づきすぎて驚いてしまっただけなのか、それとも本当に義昭にそういう気持ちが芽生えてしまったのか、奈央は自分の気持ちがよくわからなくなって戸惑った。

 どうやったら自分の気持ちを確かめられるだろう。そう考えていれば、ふとあることが頭をよぎってしまった。キスできるかどうかで判断できるなんて話があった気がすると思いだしたのだ。

 奈央はその思考のまま、義昭とキスできるかどうかを考えようとした。義昭とのその場面を頭の中に描いてみる。するとその瞬間、奈央はそれはもうはっきりと自覚してしまった。これはもう本物だろうと。できるどころではない。したいと思ってしまったのだ。まったく何とも思っていない男性で想像してみても、したいという気持ちにはならないし、それどころかできるとも思えない。こんなのもう完全に恋に落ちてしまっているだろう。

 自覚してしまうと義昭の存在をより意識してしまって、パズルに集中できなくなった。目線はずっとテーブルの上のパズルに向けているのに、奈央の意識は義昭のほうにずっとある。

 結局、その後はほとんどパズルは解けないまま、奈央はただ胸の高鳴りを抑えることに必死になっていた。夜寝るときにも義昭を意識しすぎて近づけなくて、この日はさっさと自分のベッドで眠ったのだった。
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