凄腕外科医は初恋妻を溺愛で取り戻す~もう二度と君を離さない~【極上スパダリの執着溺愛シリーズ】
そうして月満ちて、元気な男の子を出産した。
『宏輝さんに、そっくり』
思わずそう言って笑ってしまうほど、男の子は……祐希は、宏輝さんそっくりだった。
ちょうどそのくらいからだった。北園さんがテレビや雑誌に多く露出し始めたのは。
宏輝さんとの婚約のインタビューがきっかけで「美人すぎる女医」として注目を集め、コメンテーターやモデルとしても活動を始めたのだった。
薬指に光る大きなダイヤを見て心が痛んだ。彼女が話す宏輝さんとのデートや日常の惚気話に耐えきれず、私はいつしかテレビを見ないようになっていた。
そしてある日、街中で見かけた雑誌の広告に美樹さんと写っているのをみたとき、ガラガラと世界が崩れて行く音を聞いた気分になった。私と、宏輝さんと、美樹さんと過ごした幼少期のキラキラした幸福が一瞬にして瑕だらけのものにかわる。
ああ、上宮の家に彼女は望まれて嫁ぐのだと。
不釣り合いな夢から醒めるときが来たのだと、そう思った。
「茉由里さん、もう保育園の時間じゃないか?」
吉田さん改め叔父さんの声に、コーヒーを淹れていた手を止め慌てて壁掛け時計を見る。一時間ごとに「ぼん、ぼん」と古めかしく音を立てるそれは、じきに午後四時を指そうとしていた。
「あ、ほんとうだ。叔父さんごめんなさい、これ途中なんだけど」
私はギャルソンエプロンを外しながらあわてて叔父さんのほうを見る。
「いいさ」
叔父さんが軽く目を細める。私は常連のお客さんに頭を下げ、急いでパーカーを羽織ってカフェを飛び出した。仕事はいつも白系のカットソーに黒のチノパン、それにローカットのスニーカーだから、動きやすいし走りやすい。
仕事中はきっちりとまとめている髪をほどき、ベビーカーを押して向かったのは、哲学の道とは大きな通りを挟んで反対側にある小さな保育園。
「祐希〜、お待たせ!」
「ママ!」
保育園の玄関で、もうすぐ一歳半になる祐希なりのかわいらしい全力で駆け寄って来てくれる。こんなことをされると、愛おしさで胸が毎回きゅんとしてしまう。
ぎゅうっと抱きしめてから抱き上げ、先生から連絡袋やお着替え袋など一式を受け取ってベビーカーに積んだ。
「今日も祐希くん、元気で頑張ってましたよー」
保育園のクラスの担任、高岸先生が朗らかな笑顔で言う。三十代手前くらいの、穏やかな男性の先生だ。保育士さんで男性は少し珍しいけれど、きめ細やかな保育と人当たりの良さで、園児からも保護者からもよく慕われていた。
「ありがとうございます。高岸先生がよく見てくださっているからです」
「とんでもない!」
先生は少しオーバーリアクション気味に手を振った。頬が少し赤いのがかわいらしい気がする。こういうところも保護者人気の要因なのだろう。まあもっとも、一番の要因は彼がすらっと背の高い甘いルックスの男性だからかもしれなかった。
「そういえば松田さん、あれ、ありがとうございました。カボチャのレシピ」
「あ、美味しかったですか?」
高岸先生が頷いて、ホッとする。、
少し前の面談のとき、ちょっとした雑談から高岸先生がカボチャ嫌いだと判明したのだ。
『子どもたちに好き嫌いなく、と言っている手前、なんとか克服したいんですけどね』
そう言ってこまったように笑う高岸先生に、いくつかおすすめのレシピを教えていたのだ。
「よかったあ」
「他のやつも試してみますね」
そう言いながら祐希にハイタッチをした高岸先生に頭を下げてからベビーカーに祐希を乗せ、家に向かって歩き出す。
今住んでいるのは、哲学の道近くの古い一軒家だ。叔父さんの知り合いの家らしく、観光地にあるというのに安く貸し出してくれていた。
お墓のすぐ横にあるというのも大きいのかもしれないな……と、哲学の道へ向かう坂道でベビーカーを押しながら考えた。もっとも、京都にはお寺が多いのだから、街中にお墓があるのは当たり前のことなのだけれど。
家のある路地に入ろうとすると、祐希が「アッチ!」と哲学の道を指さす。
「どうしたの? お散歩したいの?」
祐希は真剣な顔で哲学の道方面をじっと見つめている。
おりしも桜が満開。銀閣寺に近いこともあり、休日であれば夕方でも観光客がひっきりなしに行き交っている界隈だけれど、今日は平日。さらに花冷えしているということもあってか、観光客のみなさんもぽつりぽつりと散策している程度だ。
「そうだね。お散歩しよっか」
私はベビーカーを押して坂を登り切る。
南禅寺方面に歩き出してすぐ、ぶわりと吹いた風に目を細めた。
満開の桜から花びらが吹き上がり、視界が薄い桜色に染まる。はしゃいだ声をあげた祐希に目を落としてからまた顔を上げると、数歩ほど離れた位置で男性が立ち止まった。
悲鳴をあげそうになって、すんでで堪える。
何度も目を瞬いた。
会いたいと願いすぎて、幻覚を見ているのじゃないかと思う。
スリーピースの一目で上質とわかるスーツに、仕立てのしっかりしたスプリングコートを羽織り、その男性は微かに唇を緩めた。高い背丈に、整った眉目、丁寧にセットされている髪……。
「宏輝さん」
細く掠れた声だったけれど、しっかり彼の耳に届いていたらしい。宏輝さんはさっさと距離を縮めてくると、ベビーカーの前に片膝をつく。
「茉由里に似てほしいと思っていたのに、なんだ、俺そっくりじゃないかお前は」
宏輝さんはそう言って祐希の頬をむにむにとつつく。信じられないほど優しく、甘く蕩けた顔をして宏輝さんは祐希の小さな手を包む。
「会いたかった、祐希。ごめんな、遅くなって」
祐希はキョトンと宏輝さんを見つめている。
宏輝さんは片膝立ちのまま、私を見上げた。眩しいものでも見るような目をしたあと、ゆっくりと立ち上がる。
「話がしたい」
「……はい」
この状況で、断る勇気はなかった。宏輝さんは祐希が自分の子どもであると確信しているようだったし、その上に名前まで知られていた。
全て調べ上げられていると考えて間違いない。