凄腕外科医は初恋妻を溺愛で取り戻す~もう二度と君を離さない~【極上スパダリの執着溺愛シリーズ】

 その名前に言葉を失った。北園華月さん──宏輝さんの婚約者。元、なのか対外的にはいまも、なのかはわからないけれど。

『あら、聞こえているかしら松田さん』
『聞こえて、います』

 ふふ、と電波の向こうで北園さんは笑う。

『本来なら直接ご挨拶に伺うところなんですが、あなたの周りいまガードがすごく硬くて。ご存知かしら』

 曖昧に返事をする。タワーマンションに運転手さんだけじゃなく、他にも色々と手を尽くしてくれているらしい。

『いいわねえ、愛されていて。申し訳ないんですけど、その場所変わってもらえませんか』

 私は目を丸くして息を止めた。訳がわからず、大きく息を吸い込んでから口を開く。

「どういう……」
『赤の女王仮説ってご存知?』

 唐突な話題の転換に口をつぐむ。黙り込む私をよそに、北園さんは淡々と続けた。

『鏡の国のアリスに出てくる、赤の女王のことよ。あの物語に由来した進化論の仮説のひとつ。同じ場所に留まりたければ、走り続けるしかない。進化し続けるしかないの。よりよい子孫を残すしか』
「子孫?」
『そう。男はいいわよね、外でいくらでも種を蒔けるもの。でも女は違う。種は厳選しなくては』

 北園さんはどこか遠くで喋っているように思えた。

『あたしは現北園会グループの総帥の孫ということになっているけれど、実際は違う。総帥と愛人との間に生まれた子どもなの。後継者候補の指名を受けるまで、どれだけ苦労したことか……もしあたしが優れた子どもを産めなければ、その座さえ失いかねないわ。だから宏輝さんとの子どもが欲しいの。より優秀な子どもが。だから代わってください。あなたはもう子どもいるじゃない』
「北園さん……」

 私は呆然としたまま続ける。

「子どもって、そんなもののために産むものじゃないです」
『え? じゃあなんのために産んだの?』
「大好きな人との子どもが欲しいって、そう思うのはふつうのことなんじゃないですか」
『それこそ本能に支配されているだけよ。もっと理性的に』

 そう言う北園さんを放って私は通話を切り、着信を拒否する。はあはあと肩で息をして、楽しそうに遊んでいる祐希を抱きしめた。

「違うわ。愛おしいものなの、子どもって。道具にするために産むものじゃない」

 北園さんに届かない細い声で言う。祐希は不思議そうにしながらおもちゃを噛んでいる。




「ただいま、茉由里、祐希」

 当直があったため二日ぶりに帰ってきた宏輝さんは、とても嬉しげに祐希を抱き上げた。祐希もはしゃいで、ふくふくした手足をじたばたさせる。

「帰宅する楽しみがあるの、嬉しいな」

 すっかり眉を下げてデレデレした顔になっている宏輝さんに目を見張る。すっかりパパの顔だと思ったのだ。

「美樹が来たんだろ」
「うん、お土産たくさんもらっちゃって」

 そう言ったとき、宏輝さんが「あ」と呟き微笑んだ。

「そうだ茉由里、土産で思い出した。夏になったら十日ほど連続して休暇がとれるんだ」
「そうなんですか?」
「病院スタッフのQOLを上げていこうという改革の一環で。ウチは医者も看護師はじめスタッフも人数が潤沢だから──それで、よければ海外にでも行かないか」
「海外に、ですか?」
「家族旅行に婚前旅行を兼ねて──もちろん新婚旅行としても」

 宏輝さんはそう言ってから祐希に頬擦りをする。

「どこがいい、祐希。海か、山か。遊園地でもいいな」

 どうする? と首を傾げる宏輝さんに、私はとても北園さんのことを言う気になれなかった。
 北園華月さんは、私が思っていたような人ではなさそうだった。インタビューを通して知っていた彼女は、医師としての使命に邁進する、そして婚約者のことを大切にしている素敵な女性だった。でもあの電話で伝わってきたのは、自身の地位に腐心する執念深い感情だけだ。

「……茉由里?」

 心配げな声に、ハッとして微笑む。

「大丈夫、楽しみにしてます」

 そう答えてしまって慌てて下を向く。いいはずがない、私はまだ身を引こうとしているのに……
 宏輝さんが嬉しげに私を抱きしめる。

「すこし素直になってきたな。意地っ張りめ」

 耳元で囁かれ、甘く耳殻を噛まれる。ぞくっとした快楽が背中をつたい、困って彼を見上げれば宏輝さんは喉元で楽しげに笑った。
< 36 / 58 >

この作品をシェア

pagetop