赤金の回廊 ~御曹司に恋した庶民令嬢は愛に惑う~
「え?」
「名前で呼んで。俺も名前で呼ぶから」
 千枝華は照れてうつむいた。
「千枝華」
 優しい声で呼ばれて、顔を上げる。
 将周の顔が近付き、千枝華は目を閉じた。
 彼の唇がそっと彼女の唇に触れた。

***

 記憶の中の千枝華はいつだって幸せだ。
 電車の窓際の席で揺られながら、彼女はため息をついた。
 窓の外は真っ暗で、まったく景色が見えない。ガラスには憂鬱な自分の顔が映っている。
 いつからだろう、彼との間に壁を感じるようになったのは。
 その「とき」にはすぐに思い至る。
 アメリカに会いに行ったときだった。
 ホテルはとらなかった。彼の家に泊まると決まっていた。
 千枝華は覚悟を決めて行った。
 彼は千枝華を求めた。
 だが、結局怖がってしまった彼女は彼を拒否してしまった。
 あのときから彼は一歩ひいて千枝華に接するようになった。
 一度の拒否が、それほどまでに深く彼を傷付けたのだろうか。
 もともとが政略結婚なのだ。
 彼に愛想をつかされたとしても仕方がない。
 でも、と千枝華は思う。
 この前だって不安にしていたら、彼はバイクを走らせて会いに来てくれた。
 愛があるからではないのか。
 単に政略結婚の相手としてご機嫌をとりにきただけなのか。
 彼に聞いたところで、安心させる言葉をくれるのはわかっている。彼は優しいから。
 選ぶ道は一つだけ、信じればいいだけだ。
 なのに、どうしても心は揺れる。
 彼を信じられないなんて、自分が婚約者失格のようにすら思えて来る。
 以前は彼と一緒にいられるだけで嬉しかった。
 想いが通じあっているのだと、一寸たりとも疑っていなかった。
 あのころに戻りたい。
 千枝華は両手で顔を覆った。
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