最後の日〜ありがとう、マーチ〜
ハーネスを持つ手が震える。堪えていたものが頰を伝った。行かないといけないのに、足を動かせない。

「マーチ……」

名前を呼ぶ。マーチの姿を私は見ることはできない。それでも今、マーチが私をジッと見つめていることはわかった。

「マーチ……」

私はその場に膝をつき、マーチに手を伸ばす。指先に柔らかくて温かいものが触れた。マーチだ。そう認識した瞬間、私はマーチを強く抱き締める。

大きくて、柔らかくて、お日様みたいな匂いがするマーチ。姿を見たことは一度もない。それでも、この子はきっと世界で一番可愛い。世界で一番可愛い私の「目」だ。

「マーチ……」

もう明日から呼ぶことのない名前を呼ぶ。大好きでたまらない名前を呼ぶ。もっと言いたいことはたくさんあるのに、ただ名前を呼ぶことしかできない。

何分ほど私はマーチを抱き締めていたんだろうか。「岡本さん」と施設の人に名前を呼ばれて、私は慌てて涙を拭った。
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