最後の日〜ありがとう、マーチ〜
「すみません。足を動かさなくて……」

「いえいえ。マーチとのお別れですからね」

しばらく私の鼻を啜る音が施設の前で響いた。数分後、私は職員の人と共に中へと入る。

ハーネスを外して引退した盲導犬は、引退犬飼育を行うボランティア家庭で余生を過ごすか、環境が整った専門の施設で元盲導犬の仲間たちと暮らすことになる。パピーウォーカーを行った家庭が引退後に引き取るケースもあると説明された。

広々とした部屋に案内される。ここでは、今日引退を迎えた盲導犬たちが集まっているようで、複数の犬の息遣いが聞こえてきた。

「ハーネスを外してください」

職員さんに言われ、私はマーチのハーネスに手を掛ける。このハーネスを外した瞬間、この子は私の「目」ではなくなる。この十年は長いように思えて、一瞬で過ぎていった。

「マーチ、ありがとう」

やっと、その言葉を言えた。刹那ハーネスが外れる。マーチは盲導犬を引退した。もう私のために働かなくていい。

……嫌だ。悲しい。寂しい。もっとそばにいたい。そんな欲をただ殺して、また泣きそうになるのを堪える。
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