敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?
唐揚げのことがあってから、翌朝。いつも通り出社の準備をしていると、ガタン、と音がして学が起きてきたのだと分かった。阿久津は真っ先に彼に挨拶した。
「おはよう、学くん」
目が合った学は、まるで珍獣を見るかのようにこちらを凝視したまま固まっている。
「えっ、なんか変だった?」
思わず慌てる阿久津。
「……いや、おはようって、本当に言うんだって思って」
「ええ? 学くんの家、家族でおはようとかおやすみとか言ってなかったの⁈」
「はい。そもそも全員と会話が無かったし」
「はあ、そりゃ」
「ヤバいんでしょうね、うちの家族」
自虐が滲んだ笑みを浮かべる学。
「どう返事したらいいんですか、それ」
「え? 『おはよう』に対して?」
そっか。そうだよな。挨拶したくないんじゃなくて、挨拶の仕方や意味が分からないんだ、この青年は。学は置いておいて、あの佐伯社長ともあろう人が、家では家族に挨拶もしなかったなんて意外や意外。
実は、「何のために挨拶するのかわからない」と言う若者は、学だけでなく、今まで阿久津が担当した新人にも結構いた。流石に「おはよう」の意味が分からないという子はいなかったが、休暇を取る前日の「明日お休みいただきます」や飲み代を払ってもらった後の「ご馳走様です」などの声がけは、おろそかにしてしまいがちな子もいた。
そういう時、「なんであいつは挨拶しないんだ!」と一方的に怒るのではなく、その子が何で言わなかったのか考える先輩でありたい、と阿久津は思う。
実際、阿久津自身もこれって必要? と思う挨拶や声がけってある。年末年始にわざわざ1人1人のデスクに伺って長々と挨拶したり、1日休んだだけで部署のみんなに「お休みいただきありがとうございました」と言って回ったり。時代とともにこうした風習も「必要無いんじゃないか?」と言われてきている。だから、挨拶しなかった子を頭ごなしに叱ることはしたくないのだ。
◆阿久津流 教え方・その2◆
その人の行動だけでなく、その行動があった背景も一緒に見よう
「学くん。難しく考えなくていいよ。とりあえず相手に挨拶されたら同じ挨拶を返すところから始めてみたら良いと思う。『おはよう』と言われたら『おはよう』、『おやすみ』と言われたら『おやすみ』で良いんだよ」
「一体、何のために言うんだろう」
学は首を傾げる。「そんなもの意味がない」と突っぱねたいわけではなく、純粋に意味がわからないのだろう。
「うーん、何のためなんだろうね。会話を気持ちよく始めるための合図、とか言ったりもするけど。私としては『自分はあなたに友好的ですよ』と示すサインだと思ってる」
阿久津の話を聞いてもキョトンとしている学に、阿久津は補足する。
「たまに、会社でも挨拶しても返さない人もいるんだよね。そういう人は、どうしても『え? 大丈夫かこの人……』と思われてしまうかもしれない。案外、話しかけると普通に対応してくれたりするんだけど、何故か挨拶だけしない、みたいな人もいて。でも挨拶ってどうしてもこの世界だと人としての基本と言われているから、それをしないと本当は良い人でも、ヤバい人なのかな? と思われてしまう。それって損だと思うんだ」
学は黙って阿久津の話を聞いて、しばらく考えたあとゆっくり言った。
「そういうものなんだ……分かった」
「じゃあ、学くんもやってみようか。明日から」
「明日で良いの?」
「うん。良いよ良いよ。今更やり直しても、なんか気恥ずかしいし」
「それもそうかも」
学の鋭い目元が少し緩んだ。ぬるいと思われただろうか。まあ、それで良い。スパルタは阿久津の性に合わない。
「あと、すみません。遅くなってしまったけど……昨日の唐揚げ、食べました」
学は手に持った皿を示してみせた。付け合わせの野菜も残らず食べている。
「お! 食べてくれたんだ。ありがとう!」
これには阿久津も素直に嬉しく、思わず小躍りしそうになった。喜ぶ阿久津に対して、学はもじもじして何か他に言いたそうだ。
「ええと、それで……」
「うん?」
「この皿を、洗おうと思いまして」
「ああ! 確かに。自分の食べたお皿は自分で洗うってことか。偉いね」
「うん。そうなんだけど」
「どうかした?」
「大変恥ずかしいのですが……皿って、どうやって洗うんですか」
あー、なるほど。どうりでキッチンのシンクや皿が思ったより綺麗なわけだ。家族みんな自炊をしない、というあたりで阿久津も気付けば良かったのだが、学はおそらく料理はおろか掃除洗濯などの基礎的な部分も分からないまま大人になっている。そしてそれは、学だけの責任ではないのだ。学を取り巻く環境がそうしたのである。そして今、学は恥を忍んで皿洗いの方法を阿久津に教えてもらおうとしている。
「オッケー! 今から教えるよ。やってみると簡単だから! こっちに来て」
阿久津は学の手を引いてキッチンに案内した。本当のことを言うと、このキッチンには備え付けの高性能な食洗機があるので皿をぶち込んで洗剤入れてスイッチオンで良いのだが、せっかくこの機会である。皿の手洗いを学に覚えてもらおう。
今日も出勤時間がギリギリになりそうだが、それでもいい。阿久津は今、学の成長を励みに感じ始めている。
「おはよう、学くん」
目が合った学は、まるで珍獣を見るかのようにこちらを凝視したまま固まっている。
「えっ、なんか変だった?」
思わず慌てる阿久津。
「……いや、おはようって、本当に言うんだって思って」
「ええ? 学くんの家、家族でおはようとかおやすみとか言ってなかったの⁈」
「はい。そもそも全員と会話が無かったし」
「はあ、そりゃ」
「ヤバいんでしょうね、うちの家族」
自虐が滲んだ笑みを浮かべる学。
「どう返事したらいいんですか、それ」
「え? 『おはよう』に対して?」
そっか。そうだよな。挨拶したくないんじゃなくて、挨拶の仕方や意味が分からないんだ、この青年は。学は置いておいて、あの佐伯社長ともあろう人が、家では家族に挨拶もしなかったなんて意外や意外。
実は、「何のために挨拶するのかわからない」と言う若者は、学だけでなく、今まで阿久津が担当した新人にも結構いた。流石に「おはよう」の意味が分からないという子はいなかったが、休暇を取る前日の「明日お休みいただきます」や飲み代を払ってもらった後の「ご馳走様です」などの声がけは、おろそかにしてしまいがちな子もいた。
そういう時、「なんであいつは挨拶しないんだ!」と一方的に怒るのではなく、その子が何で言わなかったのか考える先輩でありたい、と阿久津は思う。
実際、阿久津自身もこれって必要? と思う挨拶や声がけってある。年末年始にわざわざ1人1人のデスクに伺って長々と挨拶したり、1日休んだだけで部署のみんなに「お休みいただきありがとうございました」と言って回ったり。時代とともにこうした風習も「必要無いんじゃないか?」と言われてきている。だから、挨拶しなかった子を頭ごなしに叱ることはしたくないのだ。
◆阿久津流 教え方・その2◆
その人の行動だけでなく、その行動があった背景も一緒に見よう
「学くん。難しく考えなくていいよ。とりあえず相手に挨拶されたら同じ挨拶を返すところから始めてみたら良いと思う。『おはよう』と言われたら『おはよう』、『おやすみ』と言われたら『おやすみ』で良いんだよ」
「一体、何のために言うんだろう」
学は首を傾げる。「そんなもの意味がない」と突っぱねたいわけではなく、純粋に意味がわからないのだろう。
「うーん、何のためなんだろうね。会話を気持ちよく始めるための合図、とか言ったりもするけど。私としては『自分はあなたに友好的ですよ』と示すサインだと思ってる」
阿久津の話を聞いてもキョトンとしている学に、阿久津は補足する。
「たまに、会社でも挨拶しても返さない人もいるんだよね。そういう人は、どうしても『え? 大丈夫かこの人……』と思われてしまうかもしれない。案外、話しかけると普通に対応してくれたりするんだけど、何故か挨拶だけしない、みたいな人もいて。でも挨拶ってどうしてもこの世界だと人としての基本と言われているから、それをしないと本当は良い人でも、ヤバい人なのかな? と思われてしまう。それって損だと思うんだ」
学は黙って阿久津の話を聞いて、しばらく考えたあとゆっくり言った。
「そういうものなんだ……分かった」
「じゃあ、学くんもやってみようか。明日から」
「明日で良いの?」
「うん。良いよ良いよ。今更やり直しても、なんか気恥ずかしいし」
「それもそうかも」
学の鋭い目元が少し緩んだ。ぬるいと思われただろうか。まあ、それで良い。スパルタは阿久津の性に合わない。
「あと、すみません。遅くなってしまったけど……昨日の唐揚げ、食べました」
学は手に持った皿を示してみせた。付け合わせの野菜も残らず食べている。
「お! 食べてくれたんだ。ありがとう!」
これには阿久津も素直に嬉しく、思わず小躍りしそうになった。喜ぶ阿久津に対して、学はもじもじして何か他に言いたそうだ。
「ええと、それで……」
「うん?」
「この皿を、洗おうと思いまして」
「ああ! 確かに。自分の食べたお皿は自分で洗うってことか。偉いね」
「うん。そうなんだけど」
「どうかした?」
「大変恥ずかしいのですが……皿って、どうやって洗うんですか」
あー、なるほど。どうりでキッチンのシンクや皿が思ったより綺麗なわけだ。家族みんな自炊をしない、というあたりで阿久津も気付けば良かったのだが、学はおそらく料理はおろか掃除洗濯などの基礎的な部分も分からないまま大人になっている。そしてそれは、学だけの責任ではないのだ。学を取り巻く環境がそうしたのである。そして今、学は恥を忍んで皿洗いの方法を阿久津に教えてもらおうとしている。
「オッケー! 今から教えるよ。やってみると簡単だから! こっちに来て」
阿久津は学の手を引いてキッチンに案内した。本当のことを言うと、このキッチンには備え付けの高性能な食洗機があるので皿をぶち込んで洗剤入れてスイッチオンで良いのだが、せっかくこの機会である。皿の手洗いを学に覚えてもらおう。
今日も出勤時間がギリギリになりそうだが、それでもいい。阿久津は今、学の成長を励みに感じ始めている。